居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

殉愛 原節子と小津安二郎 西村雄一郎

 
本来なら『純愛』と書くのが通常だが敢えて『殉愛』と表記するところに意味深なもを感じる。
並々ならぬプラトニックな愛が存在するかのようなタイトルだが、果たして本当のところはどうなんだろうか。
殉愛とは愛に殉ずるということからして、余程深い思いがないとこうは言えない。
愛情の極みは尊敬と共にあるが、決して男女の一線は超えないということか。
これは難しい。
概して映画監督と女優の結婚は決して珍しいことではない。
好きになったら自分の物にしたい、これは人情。
 
吉田喜重岡田茉莉子周防正行草刈民代篠田正浩岩下志麻大島浩小山明子など有名だが、小津監督に言わせると、ちょっと違ってくるようだ。
 
いい女っていうのは、いつでもいい女なんです。
例えば、ご飯を食べているときでも、寝ているときでも、何をしているときでも、いい女じゃないといけないんです。
だから、結婚したりすると、自分がいい女だと思ってた人の、例えば悪いところが見えてきますよね、どうしても。
それが、嫌なんです。
 
女優とは一緒にならないで、離れて見ていた方がいい。
 
人とちぎるなら、浅くちぎりて、末までとげよ
 
と言うのが小津さんのポリシーだが、では、原節子の方はどう思っていたのか。
監督とは一緒にならないで、離れて見ていた方がいいとは思っていないと思うが。
誰かの、或は、片方の一言でゴールインという緊張状態に置かれていたと思うのは私の穿った見方だろうか。
昭和32年のインタビューではこう答えている。
 
ほんとうにくれぐれも申し上げますが、決まった相手なんかひとりもおりません。
第一、来てくださいませんわ、私のところへなんか。
もう、私は払下げですものね。
 
随分とへりくだった意見だ。
ともあれ、小津さんは原節子に対し生涯独り身を貫いて欲しかったのだろうか。
結果的に二人は独身のまま、その生涯を閉じた。
 
ところで『晩春』『麥秋』に登場する北鎌倉の駅舎は昭和5年の創建当時と今も変わらぬ姿を保っているらしい。
何故か、変えたくとも変えられない事情がある。
明治22年、有事の際、軍は中国への物資輸送を目論んで、横須賀線を緊急に設置。
その時、最短距離を望むあまり、円覚寺の意向を無視して、敷地内に強引に割り込んでレールを敷いてしまった。
つまり、駅は寺の境内にあるわけで、そのお蔭で今日も変わらぬ姿を留めているとも言える。
 
数年前、その円覚寺に小津監督のお墓を訪ねたことがある。
 
 
墓石には一文字「無」とあるが、何故、無なのか?
本にはこのようなことが書かれている。
 
中国戦線で『暗夜行路』を読み、激しい感動に襲われる。
時任謙作の虚無的な性格は、中国で地獄を見た小津にとっては、以前にもまして、身近なものになっていた。
5月20日、小津は南京に着いた。翌日の夕方、古刹鶏鳴寺を訪れ、そこで、寺の僧に揮毫してもらった。その字は、「無」の一字であった。
 
なるほど、そういう謂れだったんですね。
時に思うのだが、私は人の死が残された者にとって何を齎すかということを知りたくて、このように繰り返し評伝を読んでいるのかも知れない。
小津監督の通夜に現れて以来、50年余、一切、公の場所に姿を見せず、郵便局以外は殆ど外出もせず、義兄の敷地内に自分の家を建て、半世紀以上も隠遁生活を送って来た原節子とは一体どのような女性だったのか。
せめて、自叙伝でも残して欲しかったものだ。
結局、小津さんへの思いは封印されたまま棺の蓋は閉ざされてしまった。
 
原節子こと会田昌江は大正九年、二男五女の末っ子として生まれている。
映画界入りは監督だった義兄の熊谷久虎の進めによるもの。
その原節子の永遠の美は小津監督によって惹き出されたものなのだろう。
個人的なことながら、私は洋画ファンだが、世界最高峰の映画は何かと訊かれれば、迷わず『七人の侍』と答える。
しかし、今日的な評価では、その位置づけは『東京物語』になるらしい。
フランス映画の『天井桟敷の人々』を押さえて堂々の栄冠。
 
では何故、私には小津映画の良さがイマイチ理解出来ないのか。
著者はこのように書く。
 
年齢を重ね、小津映画を見てほっとするのは、日本人として後に続く者に教えておきたい、こうした日本人の規範を、きちんと描いてくれているからだろう。
 
うむ・・・!
黒澤映画の動に対して小津映画は静のイメージが強い。
成瀬巳喜男溝口健二以上に小津作品というのは間が長いように思えてしまい、どうしても黒澤作品と対比してしまう。
小津監督が生涯を通じて描いてきたものは「家の崩壊」、即ち、結婚、離婚などによる家族の離散ということかと思う。
 
かくして、昭和38年12月12日、原節子司葉子岩下志麻岡田茉莉子などの見舞いも空しく、小津さんと永遠に旅立った。
その日は奇しくも小津安二郎の満60歳の誕生日。
号泣する佐田啓二杉村春子
翌日の通夜に顔を出した原節子は。
 
「玄関での原の号泣は外まで聞こえてきた」
 
という証言がある。
人とのお別れは本当に悲しい。
日本映画史に残る、小津安二郎原節子の出会いと別れは配剤の妙ということなんだろう。
最後に、こんな場面を思い出した。
昭和47年3月26日、同じく60歳で逝った森川信
臨終の床で三﨑千恵子と倍賞千恵子「死なないで!」と号泣していた。
 
 
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