居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

「南京事件」を調査せよ 清水潔

 
好むと好まざるとに関わらず、結局、盧溝橋の一発が民族的対決を誘発してしまい、後世、おそらく永久に結論の出ない不毛の論争を招く結果になってしまった。
お隣の中国では「あった」と一貫していることが、我が国では結論が定まらないまま左右両陣営がいがみ合いヒートアップした激論には多少、辟易することもある。
思うに、「あった」とする側に立つ論客はどこまで行っても「あった」という論陣を張り、「なかった」とする人は、これまた逆の論法でゴリ押しする。
故にキリがない。
 
さて、この著者はどちらの側に立つ人物なのかと、この手の本を読むときは常にそういう気持ちで読み始める。
著者はこんなことを言っている。
 
「被害者人数論争」「虐殺の有無」は別問題と考えた方がよさそうだ。
 
なるほど、それは名案だ!
ところで、「虐殺」なる言葉だが、私が初めてこの単語に巡り合ったのは、例の甘粕事件を知った時のことになる。
大杉以下3人が憲兵隊本部で虐殺されたと、どの本にも書かれているが「虐殺」とは何ぞやと思ったのが当初の印象。
余程、惨い殺され方をしたのだろうかと誰もが想像してしまう。
 
では、虐殺に大が付く場合は何人以上なら大虐殺になるのか。
以前、読んだ本では例え1万人でも大虐殺になるというようなことが書かれていたが、私もそう思う。
いや、中国が公表している100分の1の3000人でも大虐殺に違いないと思う。
つまり、この問題で問われているのは、既に組織的な戦闘行為が終わった後の一般婦女子を含む民間人と俘虜に対する殺戮行為を言っているのである。
ハーグ陸戦条約の「兵器を捨て、または自衛の手段が尽きて降を乞う敵」への残虐行為を指しているわけだ。
 
ともあれ、事実を知るには第一次資料に当たらなければならない。
そこで著者が探し出した福島県在住のある人物が90年代に集めた31冊の陣中日記なるものに着目する。
当時、南京に出兵した六十五聯隊は福島県出身者で何が起きたのか聞き取り調査をしていた人物がいたというわけだ。
 
ちょっとおさらいをするが盧溝橋事変勃発は昭和12年7月7日。
そして第二次上海事変が8月13日から始まる。
不拡大派の石原莞爾と河辺虎四郎らが拡大派の武藤章、田中新一に押し切られる形となり政府も以下の声明を出す。
 
「もはや隠忍の限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、以って南京政府の反省を促す」
 
派兵された上海派遣軍の任務は。
 
「上海付近の敵を掃討し上海並其北方地区の要線を占領し帝国臣民を保護すべし」
 
司令官は松井石根大将。
当時の上海には2万人を超える日本人が在住していた。
実はこの中に私の父を含む我が一族、つまり祖父母と7人の子供達がいたのである。
現地大学の学生だった父は、丁度、その8月に特務機関に徴用され戦いに参加した。
故に私にとって、いや、我が一族にとって重大な岐路だったはず。
因みに事変というのは宣戦布告なき武力行為のことを言う。
 
当初、頑強に抵抗を続けていた国民党軍は次第に退却を余儀なくされ南京へ敗走。
それを追って日本軍は追撃。
そして12月13日、南京陥落となるわけだが、どうもここで問題になっているのは12月16日から17日にかけての蛮行を言うらしい。
松井司令官と朝香宮殿下の入城式があったのが17日。
しかし、その裏では秘密裏に3千とも5千とも1万以上とも言われる捕虜が機関銃で殺害されたと帰還兵の日記にはある。
これをどう見るか。
 
全員殺害という命令の為、乱射後に銃剣で一人ひとり止めを刺したとまで書かれているが、否定派は日記そのものが偽物だという。
虐殺のあった場所は揚子江沿いの鳥龍山、幕府山砲台付近という所らしいが、否定派はこのようにも言っている。
捕虜の間で暴動が起き、それを鎮圧するために発砲したと。
つまり南京事件ではなく単なる幕府山事件だと。
これは初めて聞いた言葉だ。
 
しかし、こういう説もある。
当時、南京には20万人程度しか市民が居なかったのに何故30万人も殺せるか。
が、南京周辺には100万人の人口があったという説もある。
それに市民に紛れた便衣兵の数はどのくらいになるのか。
 
では、公式記録はどうなっているかといえば、それらのものは殆ど存在しない。
知っての通り、終戦となった15日以降、軍は重要記録の殆どを焼却してしまった。
だが「あった」説にも疑問が残る。
先の通州事件の復讐という意味合いも理解は出来るし、婦女子の暴行も当然のように行われたことは否定しない。
しかし、条約違反となる俘虜の大量殺害など何ゆえ必要だったのか。
この本には確かに1万数千人の殺害を明記したような手帖も出てくるが、どこにも数十万の殺害は出てこない。
 
しかるに旅団命令により捕虜は全員殺害とあるが、その命令は誰が下したか追及されていない。
少なくとも松井司令官ではないはずだ。
やはり、釈然としないものは残る。
最後に著者の祖父は日清日露の役に参戦し、父親満州で捕虜になりシベリヤ送りとなったとある。
 
私は著者より幾分年上だが、あの戦争に父が参戦して尚、生き残ったからこそ今の私や著者も存在するわけで、もし、戦死していれば私は生まれてこなかったということになる。
両軍に多くの戦死者を出した支那事変や太平洋戦争。
それによって後世、生まれてくるはずだった子供の「私」というものの存在が消える。
確かに戦争とはそういうものだ。
歴史の大きなうねりの前に翻弄された我が一族。
重症を負いながらも無事帰還した父あればこその私なのだ。
 
 
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