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戦国武将の健康カルテ 渡辺敏樹

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戦国時代の武将の死というと戦死、暗殺、毒殺、自害、討ち死になんていうイメージが強いように思うが、やはり圧倒的に多いのは病死でこの本読むとよく分かる。
当然のことながら乱世に生きる武将の生涯はストレスとの戦で、それは現代人とはまた異なる過重なもで病に罹り易かったのかも知れない。
病は気からというが本当だ!
総勢36人の戦国武将の「健康カルテ」が載っているが、病歴も多種にわたり目立つところでは意外に梅毒で死んでいる武将も多い。
大谷刑部なども同病だが関ケ原の敗戦後自害した。
 
記述はあくまでも残された文献を精査した結果の推測のに過ぎないが、激務の為の突然死などもあり、歓びは出世の果ての大名までで権謀術数渦巻く乱世を生き延びる為、手腕、頭脳、決断力が家族や家臣の為、如何に必要不可欠だったと思えば一方ならぬ重圧が、その心身を蝕んだことだろう。
例えば毛利元就は生涯、226回もの合戦に明け暮れたとあるが、226回!
現代人ではとても考えられない。
信長は謀叛がなくとも高血圧、動脈硬化を悪化させ余命4年ほどではないかとあるが人生50年の時代の時代、或はそうかも知れない。
 
秀吉の欄には尿毒症、脚気とあるが、それ以上に興味をそそられるのは秀頼は本当に実子なのかという問題。
秀吉の身長は150㎝以下。
淀君は168㎝で、秀頼は何と、197㎝、体重161㌔だというが本当だろうか。
これが事実なら、やはり秀吉の実子ではなく噂通り淀君不倫の果てか。
例えば石田三成とか。
 
中学の頃、家康は天麩羅を喰って死んだと聞いたことがあるが、確かに天麩羅は食べたが、死までに4か月ほど間があることからして末期の胃癌ではないかとある。
 
前田利家も消化器系の癌の可能性を指摘されているが、利家も身長が180㎝と当時としてはかなりの大柄。
余談だが、私は戦国武将の生き死にを考える一つの起点として関ケ原をいつも節目に考えている。
例えば利家は関ケ原の前年に亡くなっている。
利家と言えば秀吉亡き後、No.2の実力。
利家が西軍に加担した場合の勝敗はどうなていたろうか?
 
その関ケ原、歴史家の間では蒲生氏郷が生きていれば合戦は起きなかったと言われているが本当だろうか。
氏郷は文禄4年、つまり関ケ原の5年前に僅か38歳で亡くなっている。
死因は大腸がんまたは肝臓がん。
 
さて、その関ケ原の一方の主役、石田三成だが、合戦当日、酷い下痢に悩まされていたという話しは夙に有名だが、これもストレスによる過敏性腸症候群だとか。
私が常日頃、三成を賞賛するのはそこだ!
ストレスの重圧を跳ね返し、西軍不利の状況下でも尚蹶起したところを買いたい。
捉えられた三成と対面した家康は。
 
「天運の然からしめるところ。早く首を刎ねられよ」
「さすがに大将の器量だ。平宗盛とは違う」
 
関ケ原と言えばどうしても欠かせない重要な人物、小早川秀秋はどうか。
秀秋は秀吉の甥で、秀吉に養子として迎えられた後、小早川隆景の養子になった武将で、論功行賞で岡山藩55万石に加増されている。
秀秋が狂い死にしたのかどうか知らないが、戦後の秀秋は過度なアルコール依存症に陥っていたらしい。
無理もなかろう、合戦時、秀秋はまだ18歳ぐらいだった。
結果的に大大名になったわけだが、世間からは「臆病者」「優柔不断」のレッテルを貼られ、その憂さを酒で紛らわせていた結果のアルコール性肝炎。
若干20歳の若さだった。
 
ストレスと言えば、この人。
賤ケ岳七本槍の一人、片桐且元
晩年、豊臣と徳川の調停役として奔走したが心労がたたってか大阪落城の20日後、肺結核で死去した。
 
他にキリシタン大名として有名な高山右近はマニラに着いてから、たった40日で死んでいる。
苦難の航海、慣れない環境などからアメーバ赤痢に罹患。
意外に呆気ない最期だったんですね。
 
しかし、逆にいつの世でも長寿を全うした人はいる。
北条早雲88歳。
松平忠輝92歳。
真田信之93歳。
 
最後に、どうした訳かこの本には大和大納言豊臣秀長の記載がない。
秀長は秀吉より7年程前に死んでいるが、もし秀長長命であれば豊臣の天下も長く続いたやも知れぬ。
 
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