居眠り狂志郎の遅読の薦め

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鉄の首枷 - 小西行長伝 遠藤周作

 
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一般的に過去を題材にした作品を書く人は歴史小説作家と時代小説作家に区分されると思っていたが解説者によると史伝作家と呼ばれる分野もあるらしい。
初めて聞いた!
徳富蘇峰山路愛山森鴎外海音寺潮五郎大岡昇平吉村昭らが該当される作家だという。
蘇峰の『近世日本国民史』や大岡昇平の『レイテ戦記』『堺港攘夷始末』はまさにそのジャンルに該当するわけか。
しかし吉村昭も史伝作家となると司馬遼太郎とは聊か畑違いになる。
 
まあ、それはいいとして、今回の主人公はキリシタン大名小西行長
遠藤周作はこんな人物も書いていたんですね。
解説にもあるが、史伝作家遠藤周作の、この論文調の文章に着いて行くにはかなりな労力を必要とする。
昨今の『沈黙』ブームにあやかって急遽復刊となったような本だが、これを書店で目にするまでは本の存在を知らなかった。
 
そもそも私の歴史好きは『赤穂浪士』と『太閤記』が起源だが、ここ暫く戦国物から遠のいていた。
が、未だ読んだことのない小西行長と聞いて俄然、読書欲が湧いたはいいが如何せん当時の宣教師、または学者、教授の学術書が基調になっているだけに荷が重すぎた。
 
斬首された行長の記録は少なく、遠藤周作は残された僅かな文献を読み漁り自分なりの行長像を作り上げていったものと思われる。
そこには一貫して行長の面従腹背的な人物像を浮かび上がらせている。
言うなれば、自分が勤めている会社が、不正を行っていると知っていても、正義感を貫いて不正を告発するのではなく、生活を守るべく長い物には巻かれろ的な発想が行長の致し方ない人生観だったような書かれ方だ。
 
命じられた文禄・慶長の役での朝鮮出兵
キリシタン大名にとっての戦とはなにか。
そのジレンマと葛藤に苛まれた上での戦いだったと言えるかも知れない。
堺商人の子として生まれ決して戦上手でなかった行長が秀吉の命に逆らえず闇雲に進撃を続け平壌にまで到達する。
終生、反りの合わなかった加藤清正と競うように。
 
話しは前後するが、私の17歳頃の読書傾向は文庫本を三冊ずつ買うこと。
その三冊を読み終わる頃、次の三冊をどれにするか書店に出向く。
そして必ずジャンルを別けて買う。
例えば、純文学、大衆小説、推理小説という具合にだ。
 
 
この頃の遠藤周作という人のイメージは『大変だ!』『一・ニ・三』というようなキリスト教とは程遠い娯楽小説ばかりで気軽なイメージで購入していたが、いつの頃からか五木寛之仏教に、遠藤周作キリスト教にと宗教色の濃い作品へと移行して行ってしまった。
それを横目に私は彼等二人の作品から遠ざかり今日に至っている。
しかし、遠藤作品には荒木村重や光秀、または晩年の豊臣政権から初期の徳川幕府に至る過程でのキリシタン殉教者の作品も多いらしい。
今少し、他の作品も読んでみようか。
 
話しを元に戻す。
小西行長の前歴、何処で生まれ、どのように育ったのかは詳らかでない。
しかし、堺衆の血筋を引くことは確かなようで、信長上洛前のこの地は、三好三人衆松永久秀、細川勢の軍馬で蹂躙されること夥しく、如何に中立を守り封建領主たちの弱点を見つけ、貿易中心の独立した都市として存在し得るか苦心してきた土地柄だったが、それも信長の出現で水泡に帰した。
 
行長の武士としての出発点は商人として度々、父親と訪れていた備前の国主、宇喜多直家に見出されたことに端を発し、更に宇喜多の使者として出向した秀吉に見込まれ運命が変転した。
武将としてよりは官僚としての才能があったのか、小豆島で一万石の領主となり次に佐々成政の旧領、肥後国加藤清正と分け合い二十万石の大名になった。
秀吉は専ら輜重輸送の面で行長を徴用したようだが次第に清正ら武断派の武将とは気が合わず、事務官僚派の石田三成と馬が合うようになった、結果的にそれが命取りになってしまった。
 
朝鮮派兵の第一軍総指揮官は行長、第二軍団長は清正という布陣。
文面には二人が悉く対立していく様が多々書かれている。
奉行として視察にやって来た石田三成増田長盛大谷吉継らは行長の意見に与し、官僚派と武断派の対立は決定的となり関ケ原で敗れた後の4人の最後は知っての通り。
三成、行長は斬首。
大谷吉継は自害、増田長盛は改易。
 
一体、行長の人生とは何だったのか?
才能があったが故に武士に取り立てられたが、高山右近のようにキリシタンとして信念を全うすることも出来ず、秀吉の命に背けないまま、明(中国)に侵攻する。
無謀に近い明の征服。
軍団長会議に於いてひとり講和を主張して已まなかった行長。
停戦講和が受け入れられないと知るや秀吉の死をひたすら願うようになり、それ以外にこの無益な戦の停戦はないと悟る。
つまり、行長が朝鮮側に説いた説はこういうことらしい。
 
「仮道入明」
 
朝鮮に敵意はない。だから明に至る道を開けてくれ。
しかし、そんな道理は通らず朝鮮軍は明に援軍を頼み頑強に抵抗。
あくまでも徹底抗戦を叫ぶ清正との対立も頂点に。
結局は秀吉の死で終焉に。
 
ところで、撤退後から関ケ原に至る2年間、行長が何をしていたのか確実な資料はないとか。
その行長の処刑は慶長五年十月一日。
記録によると馬の代わりに三台の荷馬車に石田三成安国寺恵瓊小西行長の順で乗せられ一条の辻、室町通り、寺町を経て六条河原に轢き立てられた。
 
群衆は沿道、河原に数万人とあり、行長らは哀れにも鉄の首枷を嵌められていた。
行長、遺書の現代語訳は以下の通り。
 
今回、不意の事件に遭遇し、苦しみのほど、書面では書き尽くし得ない、落涙おくあたわず、このはかなき人生で耐えられる限りの責苦を、ここ数日来、忍んできた。
今や煉獄で受くべき諸々の罪を償うべく、苦しみぬいている。自分の今日までの罪科がこの辛い運命をもたらしたのは確かである。されど身にふりかかった不運は、とりもなおさず神に与えたもうた恩恵に由来すると考え、主に限りない感謝を捧げている。最後にとりわけ大切なことを申しのべる。今後はお前たちは心を尽くし神に仕えるように心がけてもらいたい。なぜなら現世においては、すべては変転きわまりなく、恒常なるものは何一つとして見当たらぬからである」
 
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