愛に恋

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わが町・青春の逆説 織田作之助

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大雑把に言うなれば新潮文庫岩波文庫の違いはこうなるか!
新潮は自然淘汰文庫、岩波は復刊復刻文庫。
平たく言えば新潮は読まれなくなった本は容赦なく切り捨てられ岩波は切り捨てられた近代文学の復興に努めている。
そういう意味では確かに岩波の価値は高いのだが新潮の方針に沿って言えば、読まれなくなった本にはそれなりの訳もある。
 
時代にそぐわない、面白くない、売れない。
 
明治文壇以来、一体、どれだけの作家と小説が消えていったことか。
例えば直木三十五はどうか。
芥川は残ったが直木は賞の名前としてのみ記憶されている。
久米正雄は芥川や菊池との交友関係ばかりが有名になって作品は残らなかった。
横光利一講談社文芸文庫と岩波ぐらいで現在では殆ど読む人はいないだろう。
しかし、友人だった川端はノーベル賞文学者として今日にその名を馳せている。
 
では、織田作之助はどうなのか。
織田作の作品は岩波で3冊を数えるのみで相対的にはあまり読まれているとは言えないが、ただ、『夫婦善哉』だけは、おそらく将来も残り得ると思う。
以前、森繁主演で、その映画を見たことがあるが、確かに面白かった。
 
だからというわけでもないが、古書店で買ったまま書棚に放置しておいた今回の一冊『わが町・青春の逆説』をやっと手に取って読了したのだが果たしてどうか。
ひとつ言えることは『わが町』と『青春の逆説』を分冊しても良かったのではないかと。
解説を容れると543頁もあり、やや長すぎる。
 
まあ、それはいいとして、それぞれ他人様の書評を読んでみたが大体において好意的に受け止めている。
解説者も魅力ある作品のように書いていたが、私にしてみれば、あまりそのようには受け取れなかった。
文体が合わないのか説明書きがやたら饒舌に過ぎるように思うのだが。
 
第一、そんなに素晴らしい作品なら何故、岩波でしか読めないのか。
まあ、あまり酷なことばかりを言っては夭折した織田さんに礼を失していると思うのでこの辺でやめておく。
内容を簡単に言えば、人間はからだを責めて働かな嘘やと不撓不屈の精神で人力車を引きながら孫娘を育てあげる男の、明治・大正・昭和にわたる波瀾万丈の生涯を描いた『わが町』と過剰な自意識に振り回される不器用な美貌の青年の成長を点綴した自伝的小説『青春の逆説』ということになる。
 
『わが町』では祖父、他吉が引く俥の後ろからヨチヨチ随いて来る孫娘、君枝の姿に不憫さを感じて、その場面を想像したり『青春の逆説』では主人公、豹一の女性観としてこんなことが書かれている。
 
彼が今まで嫌悪していたことは、女の意志に反して行われるものと思っていたのに、意外のも、それは思い違いだったということだった。
 
つまり、こういうことになる。
この日、20歳の豹一は6歳年上の元女優と体の関係を持つ。
それまでの豹一は男女の性交渉というのは「女の意志に反して」つまり男の欲求に嫌々付き合っているだけだと思っていたが、実は意外、そうとばかりも言えないということを初めて知った。
 
簡単に言えば女にも性欲があるということに気が付かされた。
更に考えは発展し、高利貸しの男の下に後妻に入った母も或はそうなのかと勘ぐってしまう。
う~ん、確かに。
私も20歳ぐらいの頃は似たような考えを持っていた。
性欲とは男の一方的な欲求に過ぎないと。
 
だが、物語の終局はいきなりやってくる。
初対面のカフェの女と関係を持ち、その女が妊娠し、そして結婚、出産。
穿った見方をすれば、物語が長くなりすぎたゆえの強引なる結末。
まあ、批判めいたことばかりを書いていては、これから読もうと思っている人に申し訳ないので、私も冗舌にならないうちに筆を擱きたい。
 
あっ、そうそう、最後にこれだけは書いておかねば。
『青春の逆説』にこんな場面がある。
 
「卒爾ながら伺いますが、あなたは水原紀代子さんですか」
 
中学生の主人公が人に尋ねる場面だが「卒爾」は”そつじ”と読む。
突然で失礼ですがという意味だが昭和の初期には中学生でもこんな言葉を使っていたのだろうか。
大変、美しい日本語だが現在では死語である。
しかし、これはどうか。
 
「いけしゃあしゃあ」
 
これを漢字で書くとこうなるらしい。
 
「いけ酒蛙酒蛙」
 
酒に蛙と書いて「しゃあ」、どういう意味なのだろか?
 
 
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