愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

ロレンスを愛した女たち 中村佐喜子

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まったくどうも『チャタレイ夫人の恋人』を読んでもいないのに、D・H ロレンスの伝記を読んでどうするの、なんていうもんです。
故に、彼が天才かどうか判断する材料を持ち合わせていないというのが正直な感想。
 
ともすればこの作品の性的描写と、邦訳の出版をめぐる裁判沙汰ばかりが注目されがちなD・H・ロレンスとは、一体どのような作家であり、何を描こうとしていたのか。没落貴族の娘、社交界の花形、女権論者、女流作家など数多くの女に愛され、放浪を続けた実生活と主要作品とを関連づけ、天才作家の実像を描き出した力作評伝。
 
と解説にあるが、不倫の果てに射止めた年上の女性と結婚、それ以来、自宅というものを建てなかったようで、世界中を旅して周る生涯だった。
確かに日本では、いや私自身、D・H ロレンスといえば『チャタレイ夫人の恋人』しか知らない。
或いは伝記本を読むより裁判記録を読んだ方が面白かったか。
著者は日本人ということだが、まあ良く調べたこと、書く方も書く方だが読む方も読む方で、ノンフィクションにありがちな登場人物の多さに、400ページ以上を完読するのは、ややうんざりした。
 
中公文庫の絶版本には貴重な本が沢山あると思うが、併し本書などは、よっぽど何かない限り復刊しないのではないかと思うほど退屈だ。
著者が悪いのではなくロレンスの生涯は、伝記を読むほど面白いものではない。
だが、名誉のために言っておくと、『チャタレイ夫人の恋人』だけが彼の作品でないことは勿論なのだ。
 

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Milk'n Blues  ♬ VICIOUS SMILE


Milk'n Blues | VICIOUS SMILE

私の中では今、一番の注目株。

ロックからブルースまで歌い演奏するバンドだが、これはディキシーランド・ジャズか。

通常6人編成のようだが、屡々、違うメンバーが入るのはどういうわけなのか分からない。

おそらく現在はこれがオリジナル・メンバーだと思うがどうだろう。

当ブログでも過去2回取り上げているはずだが。        

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日本のゴーギャン 田中一村伝 南日本新聞社編

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タイトルの『日本のゴーギャン』というのはミステイクではなかろうか。
どこに日本のゴーギャンたり得るものがあるのか。
ゴーギャンタヒチに引っかけて、単に田中一村奄美大島へ移住したというだけのこと、一村がそれに倣ったわけでもなんでもない。


また、ゴーギャンと違い、やためったら10代の少女を妻にしたような経験もなく、一村は生涯を通じて、女性関係に関しては清廉潔白、やましいところがない。
絵一筋、他の事に関しては眼中にない生活で、作風はゴーギャンなどではなく色合いなどからしアンリ・ルソーを思わせる。
 

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《アダンの海辺」》(1969年)

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《ビロウとアカショウビン》 (1962年)

 
天才画家のなんという不遇な生涯。絵に殉じ、聖のように生きた一村。その生の軌跡は、気品あふれる作品群とあわせて見るとき、一段と鮮やかに光芒を放って追ってくる。
 
と著者は書く。
美なる自然をキャンバスに写し取る、ただそれだけに命を削る一生だった。
 

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詩人の終焉

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名文に出会った時、それはまるで路地の片隅から突然現れた美女を凝視するが如く
初恋に似た幼い疼きを胸に覚える。
敬愛する萩原朔太郎が亡くなった時、室生犀星は追悼号でこのように書いている。
 
たばこをやめ
かみを剃り
 
坊主となりて
きみは永き旅路にいでゆけり
 
ひとにあうことなく
曠として
きみはむなしくなれり
 
あおばわかばの果てもあらず
ひとのなさけに表をむけず
 
その二人を評して北原白秋は言う。
 
犀星は健康 朔太郎は繊弱
犀星は土 朔太郎は硝子
犀星はろうそく 朔太郎は電球
犀星は高原の自然木、朔太郎は幾何学模様の竹
犀星はたくましい野蛮人 朔太郎はヒステリーの文明人
犀星は男性の剛毅を持ち 朔太郎は女性の柔軟を持つ
 
萩原朔太郎は自分のことを「不遇な季節はずれの天才」だと思っていた。
犀星はそんな朔太郎との思いを書く。
 
「萩原と私の関係は、私がたちの悪い女で始終萩原を追っかけ廻していて、萩原も
 ずるずるに引きずられているところがあった。
 例の前橋訪問以来四十年というものは、二人は寄ると夕方からがぶっと酒をあおり
 またがぶっと酒を呑み、あとはちびりちびりと呑んで永い四十年間倦きることがな
 かった」
 
白秋と朔太郎は昭和17年に共に逝き、犀星はそれから20年生きて昭和37年に亡くなっている。
そして、39年には佐藤春夫も逝く。
弔辞を読んだのが川端康成
 
悲愁のうちに千峰霽(は)れて露光冷(すず)しきを感ず
心奥を貫きて開眼を促す 
時は五月 
詩人の古里にたちばなの花咲くならんか
ほととぎす心あらば来鳴きともせよ
 
格調高い文章、明治生まれの文豪たちの終焉が近づいていた頃ですね。
同じ空の下、子供の私は何も知らず、ただ、飛蝗や蝉を追い回していた日に。

見たかった共演 Part.1

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オードリー・ヘップバーングレース・ケリー 1956年 

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 ソフィア・ローレンジェーン・マンスフィールド 1957年

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ローレンス・オリビエ、ヴィヴィアン・リー&モンロー、アーサー・ミラー

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リチャード・バートン、クラウディア・カルデナーレ、エリザベス・テーラー 1967年

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左からクラーク・ゲーブル、一人置いてゲーリー・クーパー

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マイルス・デイヴィススティーブ・マックイーン 1963年

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ジェームス・ディーン&マーロン・ブランド

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ジェームス・ディーン&サミー・デイヴィスJr. 

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プリンス&アリ、死の6週間前

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レノン&ボウイ

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マイケル&マドンナ 1991年

生涯、一度も共演することがなかったと雖も、そこはそれ有名人同士、いろんな機会で会うことはあったわけで、こうして記録として残っていることは喜ばしい。

この手の意外なツーショットは見るのも楽しい。

黒田日記

明治、大正期に活躍した日本洋画壇の巨匠・黒田清輝は、明治17年フランス留学中の2月9日から約40年間に亘って日記を書き溜めている。
その黒田画伯が亡くなったのは大正13年7月15日。
当時の新聞を見ると。
 
黒田清輝子絶望/昨日からカンフル注射で辛うじて持堪える・・・帝国美術院長黒田清輝子は昨年十二月腎臓病に糖尿病を併発し、さらに狭心症を起こして麻布芋町一七七の別邸で三浦、吉本両博士、渡辺、島田、山口各学士等の診療をうけていたが、六月三十日朝俄かに胸の苦悶を訴え脳貧血を起こして以来病勢は急に革まって危篤に陥った。主治医は一日から引き続きカンフル注射により辛うじて子の生命を保持しているが、既に親戚一同は同邸に詰め切り門下生杉浦非水、中沢弘光、跡見秦、岡野栄、岡常次、桜井知足氏も急を聞いて馳せつけ恩師の病床に昼夜看護をつとめている。」

『東京朝日新聞』(1924年7月3日付)
 
黒田日記を読むと最後の日付は大正12年1月7日、つまり「昨年十二月腎臓病に糖尿病を併発し」とあるので、この年の12月に腎臓病になったということか。
前日の6日の記述には。
 
 
「一月六日 土 晴 
氣温稍々昇ル 松方君ヲ其別莊ニ訪ネ二時間許語リ一旦歸宿 後チ小田原街道ヲ散歩ス 湯河原中西屋ナル青木子爵ト電話ヲ交換セリ 同子モ明後八日歸京ノ豫定ナリト云フ「寸鐵」ノ讀殘シヲ讀ム」
 
現代語に改めると以下のようになる。
 
「気温、いよいよ昇る。松方君をその別荘に訪ね2時間ばかり語り一旦帰宿。 後ち、小田原街道を散歩す。湯河原中西屋なる青木子爵と電話を交換せり。同子も明後8日、帰京の予定なりと言う。『寸鉄』の読み残しを読む」
 
この時代、松方君というのは元老松方正義のことを言っているのか少し気になった。
松方正義は薩摩閥の長老で首相経験者でもあり黒田とは同郷だが、その年齢差は親子ほどもある。
 
松方は天保6年2月25日(1835年3月23日)の生まれ。
片や黒田は1866年8月9日(慶応2年6月29日)生まれで、31歳も違えば郷土の先輩として「松方君」呼ばわりはやや異な感じがする。
黒田は養父の死去により子爵を襲爵し、貴族院議員の立場にもあったが松方は公爵。
では誰か他の松方なのかと思うが、これはどうなる。
 

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黒田が大正4年頃に描いた《松方公肖像下絵》というものだが、ここに描かれている人物こそは、まさにその松方正義公爵ほかならない。
では二人の没年はどうかと調べてみた。
するとどうだ!
 
松方は大正13年7月2日に89歳で他界している。
一方の黒田は同じ年の7月15日、57歳で没した。
僅か13日違い。
う~ん!?
併し松方にはこんな逸話がある。
本人は大変な女好きで妾腹に産ませた子も含めると何と15男11女の子沢山。
或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、
「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。
或は「松方君」というのは、この15男の内の誰かなのだろうか?
 
そこで思い出した。
有名な松方コレクションの松方幸次郎だ。
慶応元年12月1日(1866年12月1日)で父は元老松方正義
つまり黒田とも同郷で同年生まれ。
「黒田君」というのは絵画趣味の松方幸次郎に違いない。
 
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朴烈 金子文子裁判記録

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所謂、朴烈事件の裁判記録、左翼系の事件などは、この黒色戦線社から概ね出版されていると思う。

併し、この本は初めて見たが値段は9,000円と高く、とても買えない、中を見ると上下二段組と、これまた読み甲斐がある代物。

何しろ事件も裁判も大正時代と古く、読むに骨の折れる本には間違いない。

だが、裁判記録を読むに好きな私としては手元に欲しいものだ。

ええ、お前が読むのと言われてしまいそうだが!

 

因みに金子文子の「何が私をそうさせたか」は最近、岩波文庫で出版され、既に単行本、文庫本ともに我が家にはある。