愛に恋

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Smoke on the Water with Queen, Pink Floyd, Rush, Black Sabbath, Deep Purple,


Smoke on the Water with Queen, Pink Floyd, Rush, Black Sabbath, Deep Purple, etc

凄いですね!

4大ギタリストの登場です。

ブライアン・メイ、トニー・アイオミ、デビッド・ギルモア、リッチ・ブッラクモア。

ボーカルはイアン・ギラン、ブライアン・アダムス、ポール・ロジャースなど。

ドラムスはもちろんロジャー・テイラーさまです。

誰が上手いかはともかく私は1972年からこの曲の生みの親、リッチ・ブッラクモアとイアン・ギランの大ファンでもあります、ハイ!

皆さん、今なお健在です、先輩方、これからも活躍して下さね。

将軍はなぜ殺されたか―豪州戦犯裁判・西村琢磨中将の悲劇 イアン ウォード

 
本書は、この手の物には珍しくオーストラリア人が書いている。
戦時中、マレー半島で起きた捕虜殺害事件の戦犯裁判が冤罪だったことを恥じ、それを細密に掘り起こし上梓しているが、これまでB・C級裁判で処刑された将官の本は、
 
洪思翊中将の処刑』 山本七平
『いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝』 角田房子
『ながい坂』 岡田 資中将(おかだ たすく)大岡昇平
 
と読んできたが、しかし、西村琢磨中将という人は知らなかったな。
一体、何が起きたというのか、古書市で見つけたこの本、やはり読まずにいられない。
事件は1942年2月15日、英国が山下将軍に降伏した後の4週間に起きた。
マレー半島のパリットスロンで、負傷した110人のオーストラリア人と45人のインド人を銃で乱射した上、まだ生きている者がいるにもかかわらず、石油を掛けて焼けと、ある高級軍人が命令したと証言する者が出た。
 
その虐殺を死んだふりをしてひとり生き残った証人、ベン・ハックニー中尉が現場で、階級の高い軍人を目撃したことから全てが始まる。
事件に携わった部隊が近衛師団であるということは判明していたが、ハックニー中尉は、階級の高い軍人が近衛師団長西村中将であったとまでは確認できなかった。
このため47年6月、西村事件の調査は一端終了する。
だが49年、東京にあったオーストラリア戦争犯罪科課のジェームス・ゴドウィン大尉が、近衛師団のフジタセイザブロウ中尉を取り調べた結果、事態は急転。
 
フジタは西村中将の命令により捕虜虐殺を自白したとされたが、供述書にサインしないまま姿をくらませてしまった。
その後、西村裁判の再審請求で提出された3人の元幕僚の供述書は、全て似通った内容のもので、ゴドウィン大尉の誘導尋問、教唆、歪曲があったのではないかと、今日疑われている。
さらに検察側証人に対する反対尋問、弁護側証人の出廷もさせることも出来ず、ハックニー中尉が現場で見た高級軍人が西村中将と確認出来なかったことは伏せたままになった。
当時から供述書が「ゴドウィンによって彼らが言ったかのように作成された」のではないかという疑いはあったらしい。
彼らとは3人の元幕僚で、その結果検察側は、
 
「人間の命や苦しみを全く気にかけない悪人」
 
とまで西村中将は言われてしまう。
ハックニー中尉が見たという軍人は、背の低いずんぐりした人物だが、実際の西村中将は身長165㎝で太ってはいない。
今一つ大きな問題は戦争犯罪の調査と裁判はいつまでも続けることは出来ず、どこかで線引きをしなければならい。
それに対しアメリカはオーストラリアに強い不満を表明している。
 
しかし、オーストラリアの軍務局や戦争犯罪調査関係者は、ハックニーが見た階級の高い軍人が西村中将と確認できないまま裁判は推移して行き、最終結論としてシンプソン法務官は次のように締め括る。
 
「この裁判について私は、再審を必要とするような誤審があったことを示すものは、何もないという結論に達した。それ故私の考えでは、この再審申請にについていかなる処置も必要ないということになる」
 
1951年6月11日、マヌス島で処刑、享年61歳。
辞世の句
 
「責めに生き 責めに死すのは 長(おさ)たらむ 人の途なり 憾(うらみ)やはする」
 
今や、西村中将の名を知る人はオーストラリアにも日本にも少なかろう。
こればかりは冤罪と思って執筆してくれたイアン・ウォード氏に感謝するしかないが、戦後、B・C級裁判では冤罪で処刑された方も多かったと聞く。
これも敗戦国の定めか、涙を飲んで刑場の露と聞く消えた人たちは本当にお気の毒だ。
西村中将は現場に立ち寄ったことは認めているが、物の数分で立ち去ったという。
しかし、虐殺事件は実際に起こっており、近衛師団の幕僚の誰かが命令したことに間違いない。
その幕僚の誰かは分からないまま、敢えて強い反論もせず、ひとり西村中将は処刑された。
当然、名誉回復は為されず、それも敗戦国の定め。
 
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随筆集 明治の東京 鏑木清方

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明治生まれの人は漢学の素養もあってか名文家が多い。
 
「半世紀ともなると難福交々(こもごも)、一見何の奇もなく無為に過ぎたようでも、越えて来た山河は険しい、祖母は神信心の篤い人だったので、一家が今日無事を楽しむのもその余徳であろう」
 
昭和27年2月の文章だから私はまだ生まれていない。
「半世紀ともなると」というのは結婚50年ということだと思う。
 
「難福交々」は辛いことも楽しいこともと訳したらいいだろう。
 しかし「一家が今日無事を楽しむのもその余徳であろう」
上手いこと言いますね。

名文とは簡潔にして明瞭なもの。
例えば私の好きな言葉。
 
「武士は相見互い」
 
私にはとても名文など書けぬが、ハッとするような文章に出会うのは、旅先で美人と擦れ違うようなものだ。

 

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懐かしき日本

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(1935年) 沖縄

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      (1905年)

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      (1901年)

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      1880年

失われたものこそ美しいなんて言った人がいたが

同じ国にしてもう二度と見られぬ風景

それぞれの時代が

今こそ現代だったはずが

それもこれも今は昔

知らない日本の帰り来ぬ郷愁

 

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メデューズ号の筏

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メデューズ号の筏》の中央部だが逆さまで修復している!

なぜ、逆さまなのか、その方がやり易いのかよく分からないがビックリする!

本来はこうだろう。

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1816年、モーリタニア沖でセネガル行きの軍艦が座礁、実際の事故をもとに描かれた作品で、ジェリコーはこれを描くのに死体の一部を病院から借りて自宅でデッサンしたというが、リアリティの追求のためとはいえ、まあ執念のようなものを感じる。

完成は事件から3年後の1819年、ジェリコー27歳の時だが程なく僅か32歳で亡くなっている。

落日の宴―勘定奉行川路聖謨 吉村昭

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 慶応4年3月15日、新政府軍による江戸総攻撃の予定日だったが、勝と西郷の会談で江戸城無血開城、その日、日本で初めてピストル自殺した人がいた。
幕末、幕府内に忽然と現れた傑物、川路聖謨(かわじ としあきら)。
幕臣の子に生まれたわけでもないが稀にみる才幹を示し、勘定吟味役佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、そして役人としての最高職、勘定奉行にまで上り詰めた逸材で、ロシア使節プチャーチンと和親通商条約談判に尽力したことはよく知られている。
 
川路には『佐渡赴任日記』『長崎日記 下田日記』などの著作があり現在でも読むことが出来る。
その川路が下田でプチャーチンと折衝していた頃の嘉永七年十一月四日午前八時、東海地方を大地震が襲った。
M8・4の東海大地震で下田は揺れに揺れれ、その32時間後、同じくM8・4の地震が近畿沖で発生、南海大地震と連動したのだろう。
 
この地震で下田に停泊していたロシア艦ディアナ号が津波で錨が切れ座礁して沈没。
急遽、プチャーチンは日本人大工を使って新船建造に取り掛かる。
そんな最中の安政二年四月九日、下田港に米国の蒸気船が来航、ロシア人の一部を故国に送り届けるため一端下田を離れた。
米国船が戻って来たのは四月の十五日。
その日の川路の下田日記が可笑しい。
上陸した米船員が下田に残っていたイスパニア人の妻に駈け寄るところから始まる。
 
「日本人立ち合いの人、多くいる中で抱きつき、いろいろと泣き口説き、人目を少しもはばからず、大変長いこと口を吸った。そのうえ、夫婦手を引き合い、一間のうちへ入り、戸を締めて出てこない。そのさまは犬に異なることなし」
 
川路関係の本を読むと大抵この場面が出てくるのだが、犬に異なることなしというのは、外にはそのような呻き声が洩れ聞こえてきたと解釈したらよかろう。
ただ、この場面を想像するに、いまだ嘗て男女の濃厚な接吻を公の場で見た事のなかった小役人や町民などは、ただ茫然と二人を取り巻き見ていたと思うのだが、これが無性に笑える!
そんな川路には幕府の瓦解は世の終わりと見たのであろうか。
 
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ヨセミテ国立公園

      1920年

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いったい、何を考えてるの!

写真を見ているだけでお尻のあたりがもぞもぞしてくるわ。

私はいくらお金を積まれても御免です。