愛に恋

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デザートは死 尾崎秀実の菜譜 尾崎秀樹

 
戦前、沖縄出身の画家に宮城与徳という人が居た。
しかし昭和16年10月10日午前5時半、特高課員らによって自宅を急襲逮捕される。
容疑はスパイ諜報活動で、所謂、ゾルゲ事件工作員として芋蔓式に逮捕されたひとりだが、宮城には持病があり健康を害していたため昭和18年8月2日、第一審の判決を待たずに40歳で獄死した。
 
 
同じく通信補助員だった、ヴケリッチが逮捕されたのは10月18日。
朝食前に襲われサンダルのまま妻の前から連れ去られた。
無期懲役の判決を宣告されたヴケリッチは網走刑務所で昭和20年1月13日獄死。
 
逮捕者の中には女性も二人いたが、そのうちの北林トモは昭和20年2月、危篤状態のまま釈放され2月9日死去、58歳だった。
 
 
他に水野成、船越寿雄、河村好雄なども獄死。
事件の中心人物だった尾崎秀実が書き残し、ベストセラーになった「愛情はふる星の如く」は偶然の出会いから本の存在を知り読んだのは10年前ぐらいか。
妻と一人娘に宛てて書いた243通の獄中通信からなっているが、戦後、多くの関係者がこの事件のことを語り出し、秀実の弟、秀樹も兄が近衛内閣のブレーンという地位を使って有力な情報をゾルゲに流し続けた経緯を徹底調査して多くの本を残した。
 
獄中、秀実は検閲のゆるい「食物考」なるもの昭和19年5月15日から8月4日まで22回に亘って書き残している。
美食家で鳴らした尾崎は上海時代を中心に上手い料理屋に関しては煩く、都度、食事を共にした友人との語らいなどを妻に書き送り、この本はそれらの部分を纏め弟が出版したものだが、驚くのは遠く海外のゾルゲの郷里まで取材に行った調査と文章力はとても素人とは思えない。
 
ゾルゲは第一次大戦に参戦し自らの体験から戦争の悲惨さを訴え反戦思想の末にコミンテルンの活動に傾斜していくが、尾崎の選択は日本人にとってはどう評価したものか分かれるところで難しい。
日本を敗戦に導くような重要機密をゾルゲに流す、ゾルゲはそれをモスクワに送り、結果的にソ連独ソ戦に勝利し対日参戦に至ったと私個人は見ている。
しかし尾崎も人の子、このような文章を残している。
 
「遂に父上に御目にかかる日が来ました。大いなる審判の庭に立つ如き厳粛なる気持ちで父上の前に立ちました。心静かにお目にかかれるだろうと期しておりましたものの、流石に万感交々胸を衝き上げて来るものを禁じ得ませんでした。私は心の底から父上に不幸の罪を詫び、そうして父上のいつまでも御健康で長寿を全うされることを祈りました」
 
ゾルゲ、尾崎の終焉地には現在、池袋サンシャインビルが建ち、その西北隅に小さな公園がある。
そこにはA級戦犯の鎮魂碑「永久平和を願って」の石碑があり、奇しくも尾崎らを断罪した東條も同じ場所で処刑されることになった。
 

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ルートヴィヒ2世 須永朝彦

 
うたかたの戀』という映画を知っているだろうか。
1936年作品で主演は名優シャルル・ボワイエ
1889年に起きたオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラ心中事件をモデルにした作品で、謎の多いこの事件についてはこれまで多くの本が出でいるが興味をそそられることこの上ない。
 
それに匹敵する怪事件がヴィッテルスバッハ王朝ルートヴィヒ2世の入水自殺。
こちらはヴィスコンティが『ルートヴィヒー神々の黄昏』として映画化している。
1845年に生まれのルートヴィヒ2世は第四代のバイエルン国王として即位、ヨーロッパの王族の中でも稀にみる美青年であったらしい。
身長191㎝、巻毛が好きでギョロリとした眼差し。
何故か写真や肖像画を見ると必ず立ち姿で斜め左上を見ている。
 
ワーグナーの伝記にはこの人なしでは語れないエピソードが豊富で、歌劇『ローエングリーン』を見たルートヴィヒが感動に打ち震えたとか『タンホイザーでは「病的と言い得るほどの興奮」を覚え、まるで「癲癇の発作」かと見紛うほどの痙攣を起こしたと侍従は語っている。
 
ワーグナーが度重なる借財のため拘束される危険が迫っていた時に救いの手を差し伸べたのがルートヴィヒで、それからの長い月日、仲違いを繰り返しながらも結局離れなかった。
往復書簡を読んでいると日本人では考えられないような大仰な物言いが出てくる。
 
「わが唯一の愛する友よ! わが救世主! わが神よ!」
 
ルートヴィヒとは如何なる人物であったか、あまりにも振幅の激しい極端な性格で解りにくい。
人前に出るのが苦手、癇癪、感激、憤怒も同じように沸騰し、肉欲一般が堪えがたく、法外な純潔と度外れた清浄を要求する割にホモセクシャルな一面も覗かせ、家臣への寵愛も突如として人目も憚らず始まり、散々引き回した挙句、突然終わる。
政治、軍事、外交、戦争に興味がなく、女嫌いで、ひたすら芸術と築城熱に取憑かれ、王室財政が既に破綻しているにも関わらず城造りの夢は捨てがたく、重臣を悩ませた。
 業を煮やした家臣達は一計を案じ、王の精神破綻を理由に退位を画策するが失敗に終わる。
 
「童貞王」「狂王」とも呼ばれたルートヴィヒは1886年6月13日、「8時(夜の)には帰る」と言って雨中、精神病専門医のグッデンと二人散歩に出たまま帰らなかった。
捜索隊が出たのが10時頃でレオニーという村の湖岸近くで二人の溺死体が見つかる。
発見現場は浅瀬で二人とも泳ぎが達者な事から、以前から自殺を仄めかしていたルートヴィヒがグッテンを殺害した後に自殺したものと思われた。
 
辺りには激しく争った跡があり、グッテンの顔に爪で掻き毟られた傷痕もあることから、湖に入ったルートヴィヒを止めようとして逆に殺害され、その後、王は自殺したと思われるがどうだろう。
しかしドイツ固有名詞の難しさ。
 
ノイシュヴァンシュタイン城、ヴィンターガルテン王宮、ホーエンシュヴァンガウ城、ニンフェンブルク宮殿
 
戦争が絶えなかった時代にあって、皇太子ルドルフとルートヴィヒ2世の物語は人々の関心を引き付けて已まない。
民衆を嫌ったルートヴィヒ2世が、逆に民衆からは絶大な人気があった。
良くも悪くも史上稀有な王であった。
 

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八疊記 里見 弴

 
毎年、今頃、といふのは、いま現に庄策が筆を執ってゐる十二月の上旬を指すのだが、今頃になると、高島易斷、九運暦の讀賣りといふのが、横町の辻に、路地の裏に、きまって爺むさい皺枯聲をふり絞り、不器用な節などつけて、
 
「え~、子の年は、・・・干支頭から順に申しあげます、・・・子も年は、細かなことに氣がついて、無駄使ひせず掃除好きなり。苦労のなかで貯めた金、色で失ひ、え~、色で失ひ人に倒され。お次、え~丑年は・・・」
 
などと、よしんば歳尾(くれ)の才覚に惱んでゐる最中でも、ひょいと迯(そら)されて、年中行事のもつ一種特別な懐古的情緒に胸の、柔ぎ溫まる心地もされたものだが、舊曆廢止で、今年からはそれも待たれなくなった。鳥の聲、蟲の音、呼び賣り、いつの間にか、だんだんと町なかから消えて行ったなかに、この、暦の讀賣りの聞かれなくなったことは、庄策にとってちょっとした感慨だった。
 
今日、里見 弴が読まれなくなった理由は、この話しのネタの古さにあるのかも知れない。
現在、里見 弴を読もうとするなら岩波か講談社文芸文庫ぐらいだろうか。
本書は昭和17年7月発行の初版本で五千部発行とあるが、してみると今では現存部数も少なかろうに。
 
巻末に里見 弴著作年表としてかなりの作品が掲載されているが、ご丁寧に、この本を買われた方は自分が読んだと思われる本に番号振って書き残している。
15冊を読んだ計算になるが、一体、この本の所有者は誰だったのだろうか。
既に故人となっておられると思うが、それにしても古本流転の運命。
巡りめぐって私の下に。
 
内容は十編からなる短編集。
 
「長屋総出」田舎からの電報の翌日、女中が気がおかしくなり失踪する。
「向日葵」長男が徴兵で兵役に就く、隊内で向日葵的な存在になれ。
 
など、可もなく不可もない作品だが「五分の魂」という小品はなかなか面白かった。
 
東京から来て田舎の宿に逗留している物書きが宿の主人と翌日早朝に鱒釣りに行く話しだが、どうしたことか、エサ用に捕ってきておいた蝦(エビ)が、誰かの仕業で生簀の底穴の蓋を外され逃がされてしまった。
犯人は主人の次男、一緒に行きたいと言うのを朝が早いからと無理に寝かし付けたことに反感を持った挙句の悪戯だった。
責任を感じた少年は一人、池で蝦を取っているところを、その物書きに見つかり、全てを悟った主人公の感慨を纏めたものだが、全作品中、一番の出来だろう。
 

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甘粕正彦 乱心の曠野 佐野眞一

 
ペリー来航後、世間を騒がせ、または驚愕させた事件がどれほど起きたか知らないが、大正12年の甘粕事件ほど近代史上の謎を残した大事件も珍しい。
大逆事件で左翼勢力が一掃され、生き残った最後の大物、大杉栄と妻伊藤野枝、甥の橘宗一少年(6歳)が東京憲兵隊本部内で虐殺された事件は世間の耳目を一挙に集めるには充分な事件だった。
 
広く主義者として名が知られていた大杉と、彼を殺害したとされる甘粕憲兵大尉。
古来、加害者と被害者が共にこれほど有名になった例も稀で、果たして甘粕は本当に3人を絞殺したのか。
甘粕がこれほど有名になったのは単に主義者殺しの烙印を押されたからではない。
満州国建設で果たした役割。
満映の理事長としての実力。
以前、中国では昼は鄧小平が支配し、夜はテレサテンが支配するなんていう時代があったが、この言葉の語源は、昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配するに由来している。
しかし、人殺しと言われた甘粕がなぜ強大な権力を持ちえたのか。
 
本書は、微に入り細を穿ってこれでもかと事件を掘り下げ、甘粕に関連した殆ど全ての人を洗い出し、その来歴を追うことによって真実の甘粕像と事件の概要をつぶさに検証している。
もうなんと言うか恐ろしいほどの執念で関係者の遺族を探し出しインタビューを試み、ポアロもやホームズも脱帽するぐらいの究明力だ。
 
前半は大杉殺害の経緯から裁判記録など。
後半は出獄後、満州に渡り理事長になって終戦を迎え、自決に至るまでの長い道のりを永遠と外堀から埋めていくように緻密な調査結果を記述していく膨大な作業。
読む方も疲れる。
 
自決に至るその日まで、甘粕は事件の真相を明らかにせず墓場まで持って行ってしまったが、戦後長らく行方不明になっていた死因鑑定書が見つかったことで、裁判で解明されたかに思えた大杉殺害の供述の矛盾が露呈し、軍を庇って一人罪を被り服役したのではないかという疑念も出てきた。
 
宗一少年殺害の経緯に迫った弁護人と甘粕の答弁は生々しい。
弁護人は甘粕に詰め寄る。
 
「かくも子供を愛する被告が、わずか7歳になったばかりの子供を殺害するとは、いかなる理由か。部下を庇っているのではないか。裁判は陛下の名に於いて行うものであって、神聖でなければなりません。しかも私はあなたの母上から頼まれました。あの子に限って子供を殺すはずがない。このことだけは絶対に真実を述べるようあなたから伝えて下さいと、涙を流しての御依頼です」
 
傍聴席は思わぬ展開にどよめき、甘粕の答えを固唾を飲んで見守ったとある。
甘粕はうなだれ、口を閉ざし、やがて涙あふれ出す。
ハンカチで涙を拭き取り弱々しい声で言う。
 
「度々申し上げた通り、私が子供を殺したのは事実であります。そして無意識でありました」
 
弁護人は一段と声を張り上げ迫る。
 
憲兵大尉という高等官にあるものが、罪なき子供を殺害したとあっては、あなた自身の不名誉であるばかりか、帝国陸軍将校全体の名誉にかかわりますぞ」
 
甘粕は堅く佇立したまま答えない。
答弁はなおも続くが結局、甘粕は嘘をついたことになる。
死因鑑定書が全てを物語っている。
解剖が行われたのは大正12年9月20日
甘粕証言では後ろから首を絞めたようになっているが鑑定書には次のように記載されている。
 
「男女ニ屍ノ前胸部ノ受傷ハ頗ル強大ナル外力ニ依ルモノナルコトハ明白ナルモ前ニ説述セル如キ理由ニ依リ此ハ絶命前ノ受傷ニシテ又死ノ直接原因ニ非ズ、然レ共死ヲ容易ナラシメタルハ確実ナリ」
 
つまり撲る蹴るの暴行を受けたことを示している。
対局の立場にあった大杉と甘粕は、大地震で揺らされ磁場を狂わされた磁石のように急接近し、大震災から半月後、不幸な遭遇をしてしまった。
 
ソ連軍迫るなか青酸カリを飲んだ甘粕。
急を聞いて駆けつけた赤川孝一、それは赤川次郎の父親だった。
 

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Blues Caravan 2018

毎年、このBlues Caravanを見ているが、アメリカは音楽の裾野が本当に広い。
演奏も素晴らしく私の好きなブルース・ロックだけに飽きない。
アイドル全盛の日本ではまったく流行らない音楽だけに、どうしても大人としては洋楽に頼ってしまうのも無理なからぬこと。
 
先日、古書市に行った折りには隣り合うようにして中古レコード市もやっていたが、カゴにいっぱい洋楽のCD、レコードなど入れている中年男性を見たが、そうだ、頑張れオジサンたち。

WE LOVE SAS サザンオールスターズが40年も愛される48の秘密

 
先日、行きつけの紀伊国屋ではなく、立ち寄った先の本屋に岩波新書があるか、それらしい所に脇目も振らず一直線に進み、目的の物を買って、さっさと帰ろうと思った一念で目指した先に・・・、やはり獲物はあった。
ピンポイントでゲットした喜びにほくそ笑みながら、レジに向かったまではよかったが、何気なく通路横の芸能コーナーの棚を見たのがいけなかった。
何、サザンとな!
サザン関連の新刊本が出たのか。
余分な買い物とは思いながらサザンなら仕方ないと二冊買って帰ったが、読んでみるに目新しい情報はこれといって何もなかった。
 
思うに、桑田が食道がんを克服して退院してから8年にもなる。
あの日、桑田が紅白に出るというのでテレビの前で待ち構えていた。
現れた桑田は顎がとがり、5キロは痩せたかという風貌だったが、彼を見た瞬間、思わず怒鳴ってしまった。
 
「バカ!クワタ!」
 
その後に襲い来る私自身の大病を知らぬがままに。
大病を経験すると性格が変わるなんていう人もいるが、桑田はある雑誌のインタビューに答えてこのように言っている。
 
「あと何年歌い続けられるか、と考えたら残りの時間は限られているのだと。だったら毎日を充実させて精一杯きちんとやりたい」
 
大病を機に家族やスタッフ、メンバーへの見方が大きく変わったとも言っている。
そうなんですね、優しく、丸く、角を取っていかねければならないんです。
もちろん動植物にも優しく接しなければ。
 
ともあれ、あれから40年の月日が流れたわけだ。
語り継がれるあの日、私も偶々『ベストテン』を見ていた。
黒柳徹子の質問に桑田は弾けるように叫ぶ。
 
「いえ、ただの目立ちたがりの芸人で~~~す」
 
と一声、下品で腋毛の濃い男の出現に、いよいよ阿保の時代の到来かと嘆かわしいばかりだった。
79年リリースの『いとしのエリー』は確かにいい曲で71万も売れたが、どの道、一過性の線香花火みたいのものだろうと思っていた。
80年、ファイブ・ロック・ショーと名付けたリリースの記録を見ても分かる通り、
 
2月21日 『涙のアベニュー』 87,000枚
3月21日 『恋するマンスリー・デイ』55,000枚
5月21日 『いなせなロコモーション』98,000枚
6月21日 『ジャズマン jazzMan』37,000枚
7月21日 『わすれじのレイド・バック』34,000枚
 
とさっぱり売れない。
だからというわけではないが、当時の私は洋楽専門でサザンみたいな腑抜けバンドには興味がなかった。
だが、86年、クワタバンドが放った『BAN BAN BAN』と『スキップビート』を聴いて考えが一変。
更に、89年、郡上の徹夜踊りに向かう彼女の車の中で聴いた『旅姿六人衆』でボディーブローを食らい、翌年、新たに登場した彼女が持って来たサザン・カセットに入っていた『Oh! クラウディア』でクロス・カウンターを食らってダウン!
そして2003年、建長寺ライブを見て爆発。
以来、収集癖が出て、ライブはもちろん、新聞、録画、雑誌、書籍、CD、ビデオ、ポスターと骨まで喰らう日々を送っている。
 
人類学者の中沢新一は言う。
 
桑田さんの音楽事態が不埒です。桑田さんを初めて見たとき、こんなに面白い不埒が出て来たと興奮しました。もちろん褒め言葉ですよ。
 
しかし、40年といえばいろいろありますね。
桑田じゃないけど健康管理に気を付けて、充実した人生を送って行きたい、読書やブログもその一環なんです。
 

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ハドソン・グラント・ブランド・ペック

 
本日、第二弾の投稿となります。
 
素晴らしい写真ですね!
左より、ロック・ハドソンケーリー・グラント、マーロン・ブランド、そしてグレゴリー・ペックです。
みなさん亡くなってしまいました。
 
 
 
・マーロン・ブラント
『波止場』
『片目のジャック』
 
『紳士協定』
『大いなる西部』
『ナヴァロンの要塞』
『西部開拓史』
『マッケンナの黄金』
 
私が観たのはこんなところでしょうか、ありがとうございました。
撮影は1962年。
 

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