愛に恋

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阿蘭陀西鶴 朝井まかて

好色一代男」や「世間胸算用」などの浮世草子で知られる井原西鶴松尾芭蕉近松門左衛門と同時代人だったんですね。
俳諧師として、一昼夜に多数の句を吟ずる矢数俳諧を創始、2万3500句を休みなく発する興行を打ったこともあるとか。
本当ですか西鶴先生!
その異端ぶりから「阿蘭陀流」とも呼ばれこの本のタイトルにもなっている。
若くして妻を亡くし、盲目の娘と大坂に暮らしながら、全身全霊をこめて創作に打ち込んだ300年以上前のベストセラー作家井原西鶴
朝井まかてという人は実に筆達者な人。
「恋歌」で直木賞を受賞しているが、本書も痛快この上ない小説だった。
有名な「お夏清十郎」とは『好色五人女』の中に出てくる物語とは初めて知った。
時は五代将軍犬公方様の治世で作者が西鶴に言わせているのか西鶴自身の書物の中に実際に書かれているのかは知らないがこんな場面がある。
「けど、今の公方さんも初めはえらい賢いお人や、出来物(できぶつ)らしいてな評判やったけど、親に孝を尽くせやの、いつも行儀ようしてなあかんやの、ほんまに厄介やな。今度は飼(こ)うてる犬猫、鳥まで大事にせぇて、ふざけてんのんか」
上手い言いようですね!
中でも関心したのがこの場面。
 
「長者になる秘訣を訊ねに来た貧乏人連中に、銀持ち婆さんは喋り通しや。けど肝心なことは指南してくれんまま、どうでもええ世間話で日が暮れて、とうとう夜も更けてきた。婆さんの暇潰しの相手をさせられただけで、これはとんだ空手形を喰ろうたもんやと膝を立てかけた途端、台所から擂鉢の音が盛んにしてくる。やあ、これは何ぞ旨い物でも馳走してくれるのやと期待して坐り直したはええが、運ばれてくるんは音ばかり。誰かが、あれ、どないなお菜を作ってはりますねんと問うたら、婆さんはにやりと笑うて返したな。あれは大福帳の紙を綴じる糊を作ってますのや。客に夜食なんぞ出さぬのが、長者になる秘訣だす」
 
いや、素晴らしい落語のような絶妙な会話。
この場面、西鶴がみんなに話し聞かせているのだが西鶴とはこのような才覚があったお人だったんでしょうか。
因みに物語の主役は西鶴ではなく盲目(めしい)の長女おあい。
親子の最期までは書かれていないが、おあいは「世間胸算用」が世に出た元禄五年三月二十四日に二十六歳で没したとある。
西鶴はその翌年、八月十日に没。
それにしても時代考証たるや見事なものでした。

不死鳥 岸田森

 
昭和43年といえば、もう半世紀も昔の話しになってしまう!
怖ろしい(笑
私たち世代が挙ってウルトラマン』『ウルトラ7』と円谷作品に夢中だったあの頃、その両作品の間が確か『怪奇大作戦』だったと思うのだが。
毎回、この叫び声から始まる番組に怖い物見たさの少年たちはハマっていた。
日本でただひとり、ドラキュラ伯爵を演じることの出来る俳優らしい。
冷徹な目、青白く、笑顔がなく、薄暗い路地ですれ違うにはあまりにも恐ろしい俳優、それが岸田森
その岸田森に付いて書かれた本を見つけてしまった。
 
多くの人が岸田森に付いて語り、いつまでも忘れられない俳優として心に留めている。
淋しがりやで面倒見がよく、ジャズと酒と蝶が大好きだった俳優岸田森
知らなかったが『アラビアのロレンス』でピーター・オトゥールの吹き替えをやったのは岸田森だったのだ!
 
身長169㎝、体重50キロ、ボトル半分を毎日開ける!
蝶の収集家、台湾で一ヵ月、山谷を駆け巡りなんと1,800頭(匹とわ言はない)採ったのが記録がある。
そこには怪奇大作戦で見せる顔とはまったく別の顔があったのだろう。
 
岸田森文学座の第一期生で同期には草野大悟寺田農橋爪功、悠木千帆(樹木希林)、小川真由美、北村総一郎と素晴らしい顔ぶれがいる。
悠木千帆の結婚相手とは知らなかった。
因みに加藤紘一中学の同級生。
 
ところで岸田森岸田今日子は従姉にあたり、今日子の父が岸田國士になるが、どうりで、あのおどろおどろしい雰囲気が従姉同士似ていると思った。
 
 
本書には岸田森の友人で既に亡くなった俳優が沢山出てくるが俳優業華やかだった時代が偲ばれる。
小池朝雄成田三樹夫など映画が役者によって作られていた頃の話しだ。
そんな時代を酒浸りになりながら泳ぎ切った岸田森
1982年12月、43歳の若さで旅立った。
若山富三郎が打ん殴ってでもやめさせるべきだったと言った酒。
本人はどのように自覚していたのか。
友人長田弘は弔辞の中でこう言っている。
 
人間は、一つの死体をかついでいる
小さな魂にすぎない
 

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月と六ペンス サマセット・モーム

 
 結局、モームは作中で「月と六ペンス」の意味について触れなかった。
これもまた珍しい。
タイトルが一度も出てこない!
解説者はこう読み解く。
 
「月は夜空に輝く美を、六ペンスは世俗の安っぽさを象徴しているのかもしれないし、月は狂気、六ペンスは日常を象徴しているのかもしれない」
 
と言っているが、私には解らない。
物語はゴーギャンにヒントを得て書かれているが、どこまでを事実としているのか判然としない。
ゴーギャンはストリックランドという名前で登場し、40歳で突然ロンドンの株式仲介人を辞め仕事も家庭も捨てパリに出奔する。
 
その連れ戻し役を妻から頼まれ引き受けたのが「私」つまり、モームというわけだ。
しかし、計画は失敗しストリックランドは画家になることを宣言する。
ゴッホとの間には友情は芽生えずストリックランドはタヒチに旅立つ。
ゴッホに関する記述はなく、貧困に喘いだ事柄だけが多い。
 
後半は「私」が15年後のタヒチへ赴き、9年前に死んだストリックランドの晩年の姿を主治医だったクラト医師から聞き出す。
感動小説とまではいかないが、本当にゴーギャンは島の奥地でハンセン病で亡くなったんだろうか。
証言によるとストリックランドの最期は人間の姿を留めない哀れな姿だったとある。
 
ストリックランドをゴーギャンとして考えた場合、性格的にはかなり世間と折り合いのつかない不適合な人物だったと思われる。
協調性がなく乱暴で絵画だけに憑りつかれた異常者のようだ。
 
病気が進行する中、ストリックランドは終の棲家となった小屋の内部に傑作的な壁画を描いたが、それも遺言によって焼き払われた。 
モームが見たゴーギャンが本当にこのような人物だったらゴッホとの共同生活など上手く行くはずがない。
 

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訃報 森田童子

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昭和58年に引退とあらば今の若者が知らないのも無理からぬことか。
中には男性と勘違いしているようなコメントや、「誰それ」なんていうのもあったが、そこまで言われちゃ本人も浮かばれまい。
 
彼女の曲を聴いていたのは、いつ頃だっただろうか?
ラジオでしきりに流れていたが、私もアルバムを買ったような、朧気に浮かぶ昭和の50年代前半。
誰も素顔を知らぬミステリアスな人だったが幕間から姿を消し、人生からの退場を聞いた時、貴女は65歳だったんですね。
雑踏の中に紛れ込み、童子の俤を残したまま消え去った森田童子よさようなら。

舌出し天使 安岡章太郎

五社英雄の名作『人斬り』です。
オープニングしばらくすると河原で仲代達矢演じる武市半平太勝新太郎扮する岡田以蔵の会話。
降りしきる雨の中、「天誅」と言って襲われるのは土佐藩の参政吉田東洋
刺客は三人、安岡嘉助、那須慎吾、大石団蔵。
時に文久二年四月八日。
 
その後、脱藩した安岡嘉助は文久三年、天誅組の変に参加、しかし敗北して捉われ京都六角獄舎で翌年処刑される。
二十七歳の生涯だった。
その子孫が小説家の安岡章太郎で、安岡家のルーツを溯り著したのが1981年発売の『流離譚』。
それ以前、1958年に書いた『舌出しの天使』という小説があるが、最近ある本の中にこんな記述を見つけた。
 

私たち多くの人生というものは私たち小説家が時として選んで描くような冒険や事件や英雄的行為などはない。若い人々が恋愛や結婚がどんなに素晴らしいかをを憧れるが、本当の結婚の動機とは安岡章太郎が『舌出し天使』で書いたように一人の男と一人の女がデパートの食道で、お好みランチを共に食べあったことで決まるような平凡と凡庸さに充ちているのである。
そして顔を洗う。食事をする。満員電車に乗る。風邪を引く。
そうした凡庸な日常生活性を私たちは避けて通れない。
 
まあ、そう言ってしまえば身も蓋もなく、夢も希望もないが、人生、概してそういうものだろう。
劇的で運命的な出会いなどはごく稀で、それとなく知り合って、何となく結婚する。
そして平凡な日常生活は始まり平凡な余生を送りお迎えを待つ。
 
確かにそうなんだが人間はとかく変化を求めたくなるのも人情、平凡というベルトコンベヤーに乗せられ自動的に平凡人生を歩んで行くのは躊躇いもあるが、気が付いてみれば、やはり平凡人生で良かったと思うのだろうか。
 

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まほろ駅前多田便利軒 三浦しをん

 
三浦しをん直木賞受賞作品。
なかなか面白い作品だが特別感想文を書くほどではないような気がする。
便利屋を営む中年男に舞い込む仕事を巡ってのトラブルがメイン。
寧ろ、この手の作品は映画で見た方が面白いかも知れない。
文芸作品というのは、先に原作を読むか映画を観るかでかなり違った印象を受ける場合がある。
 
その一例が松本清張の『砂の器』で、原作を超えたと作品と言われ素晴らしい映画だった。
まほろ駅前多田便利軒』はシリーズ化されるようだが、果たして続編を読んだものかどうか、しかし、三浦しをんの作品は多彩で面白い。
 

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わたしが・棄てた・女 遠藤周作

 
遠藤周作の小説にしては下卑たタイトルだと思ったが、逆にそれが興味を誘い触手を伸ばしてしまった。
主人公の大学生吉岡努はなんともいけ好かない男で性欲の捌け口から純粋な森田ミツの操を奪う
 
一見、凡俗で愚鈍の人間、教養もなく特別魅力のない田舎娘に対し大学生であることをひけらかすように言葉巧みに甘言を弄し肉欲の対象としてミツを抱く。
なんともまあ、遠藤作品らしからぬ展開にがっかり、キリスト教徒たる遠藤に不信感を覚えつつ読み進めてみると意外な展開が待っていた。
 
本書は昭和47年作品でちょうど私が遠藤作品にはまっていた頃と合致するのだがどうした訳か本作を読み落としていた。
というか最近まで知らなかった。
迂闊なことだが、もし47年の段階でこれを読んでいたら涙が頬を伝っていたかも知れないほど身につまされる内容だった。
 
貧困、ひたむき、不治の病などを扱った小説には特に弱い性質で、途中、胸を打つ場面に出くわし慄くようにして読んだ。
依って今回は今後の読者のため詳細は書かない。
ただ一言、田舎娘のミツは情の深い女性でマタイ伝の聖書の精神にあるような人。
曰く。
 
汝の近き者を己の如く愛すべし
 
苦しむ人々ににすぐ自分を合わせられる愛徳の行為、難しいことですね。
読了後、爽快な気分とは言えないがいい小説だった。
本書に興味を持たれた方には高山文雄の『北条民雄の生涯』もお薦めしたい。
 

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