愛に恋

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清須会議 三谷幸喜

三谷幸喜の作品は初めて読んだ。
別に三谷幸喜だからというのではなく、このタイトルに惹かれた。
『清州会議』
本能寺後の歴史書には必ずと言っていいほど登場する有名な会議だが、これまで『清州会議』だけを扱った本というのは見たことがない。
勿論、書き手が三谷幸喜なのでお堅い歴史書などではなく全編現代語のややパロディ的な要素のある本だが、一体、どこまでが事実なのかは疑わしい。
 
それはともかく、以前から「清州会議」という名称には違和感を覚えているのだが、戦国時代に果たして「会議」という言葉は存在していたのか。
正確には「清州評定」が正しいのではないかと思うがどうだろう。
小田原評定」という言葉もあるぐらいなので尚更そう思うのだが。
更に一言付け加えたい。
私は名古屋育ちなので清州には何度も行ったことがあるが、昔は清州城址で館などはなく、ましてや天守などはなかったが現在は模擬天守が建っている。
織田政権下の清州城は単なる館のはずで、誰の意見であんなものを建設したか知らないが絵図面も存在しない城の復元というのはあまり関心しない。
 
まあ、そんなことを言っても詮無いが本編、清州会議とはどのようなものだったのか、大方、テレビドラマや映画などでよく見る場面ではあるが大筋のところを書いておきたい。
織田家には五人の宿老がいたわけで順に筆頭家老の柴田勝家丹羽長秀滝川一益明智光秀羽柴秀吉となるが、本能寺の変が起きた時、勝家は越中松倉城に籠る上杉勢と向かい合っている最中、滝川一益は関東で北条氏相手に奮戦中。
丹羽長秀は信長の三男信孝を総大将に長曾我部攻め補佐役として堺で戦の準備をしていた。
そして秀吉は備中高松城で毛利方の清水宗治と交戦中。
光秀謀叛の知らせを聞いた秀吉は毛利方と和睦、宗治の自刃を見届け直ちに反転して山崎で光秀と弔い合戦。
 
この日、嫡男信忠は妙覚寺に滞在中。
光秀謀叛を聞き、手勢を率いて本能寺に向かったが明智勢に阻まれ断念、二条新御所に入り、妻子を前田玄以に託し自らは戦わずして自刃してしまった。
事態が治まったところで筆頭家老の勝家が各宿老に清州で織田家の行く末を話し合うため参集を呼びかける。
期日は6月24日。
 
議題は二つ。
「跡目相続」と「遺領配分」、更に論功行賞もある。
遺領配分とは亡くなった三人の領地配分。
即ち、信長、信忠、光秀の領地で具体的には信長支配の摂津の一部と直轄領地、信忠の尾張と美濃、光秀の丹波、山城、近江の一部など。
出席者は以下の六人。
 
二男信雄(のぶかつ)
三男信孝
羽柴筑前
 
池田恒興は山崎の合戦で秀吉軍と合流して光秀を破り、席上、新宿老として出席。
本書では議長が丹羽長秀、書記として前田玄以が参加している。
因みに前田犬千代こと利家は勝家の与力という立場なので参加資格がない。
問題になったのは当然、最重要案件の家督相続。
誰を織田家の跡目にするか。
信長には弟信包(のぶかね)と、12人の子供が居たという説もあるが、当面の相続対象者は信孝と信雄、二人は異母兄弟だが同い年らしい。
 
勝家は三男の信雄を推し秀吉は二男信孝を推薦。
しかし、勝家の味方たる滝川一益の到着が遅れ会議に参加できない状態で議題は進行。
議論を優位に展開さてたのは光秀を討った秀吉で勝家は合戦に参加できず、長秀は京都に最も近い位置に居ながら手柄を秀吉に奪われ領地佐和山明智軍に一時奪われてしまい発言権が低い立場。
 
本書にはお市の方と長男信忠の奥方、松姫と嫡男三法師も清州で登場させているが、その辺りはよく知らない。
但し、お市の方が勝家に味方したことは容易に察しがつく。
お市の方は、いくら兄信長の命令とはいえ秀吉は夫浅井長政の仇。
そればかりか僅か10歳の長男万福丸を殺した張本人。
小説には、その場面がこのように書かれている。
 
その時、処刑に立ち会ったのが秀吉、お前です。
どんなに私が頭を下げても、お前は聞いてくれなかった。
息子を救ってくれなかった。
兄には殺したと偽って、そっと仏門に入れることだって出来たはず。
でもお前は、それを許さなかった。
なぜなら兄の命に背くのが怖かったから。
自分可愛さで、お前は、幼い万福丸を見殺しにしたのです。
 
さて、ここで前田利家の考えが書かれているので私の推論を交えて書いてみたい。
跡目が誰になるにせよ勝家と秀吉は、この後、宿老の合議制で織田家臣団を纏めお館様の夢、天下統一を成し遂げてみせるという意見で表向きは意見が一致している。
しかし、勝家は筆頭家老の座を秀吉に奪われるのではないかと心配し、利家は口では秀吉はああ言っているが、その実、織田家を乗っ取るつもりではないかと勘繰っている。
秀吉の参謀には黒田官兵衛が控えている。
果たして、この時点で秀吉は既に将来の天下人の構想を描いていたのだろうか?
 
しかし、家臣団が分裂して相争えば戦国の世は逆戻り。
お互い肚の内を探り合いながらも猛将柴田勝家が天下人の器に非ずということは全員、暗黙の了解だったような気がする。
戦には長けても政事は苦手。
しかし、秀吉の軍門には降りたくない。
それに肝心の信雄、信孝兄弟はどちらも頼りなく長男信忠が生きているば事情はまったく変わっていたのだが。
 
そこで秀吉が打った奇策。
血統から言って織田家の跡目は僅か2歳の信忠の嫡男三法師が継ぐのが筋目。
信雄、信孝のどちらが跡目を継いでも将来の火種の元。
ならば三法師を頭首に、その後見役を勝家が推している次男信雄が見るということで一件丸く治まる。
両兄弟も宿老に総てを一任している以上、この案に逆らえず本決まり。
そして、あの有名な場面となるわけで。
秀吉が三法師を抱っこし上座に着き「一同、頭が高い」と一声。
家臣団は渋々、三法師を抱いた秀吉に頭を下げる形になってしまった。
 
領地配分も終わり、全員が国許へ帰って行く。
そして翌年4月、賤ケ岳の戦いが始まる。
この戦いに勝った方が天下人への第一歩を踏み出す重要な戦だった。
本書は、5日間の会議の流れを現代語で解りやすく書いているので非常に面白く楽しめた。
秀吉天下取りの野望は筆頭家老の勝家を上手に持ち上げながらも黒田官兵衛の悪知恵などもあって既にこの時点で肚は決まっていたのではないか思うのが私なりの結論だが。
 

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或る男の断面 宇野千代

 
『或る男の断面』の或る男とは東郷青児のことで、宇野千代の代表作『色ざんげ』は東郷に書いてみないかと持ち掛けられた東郷自身の心中未遂から宇野との結婚についての話しを仮名を使って語られているが、こちらは全て本名で書かれている。
 
といってもエッセイなので事細かに詳細が書かれているわけではない。
元来、この人には長編というものがなく、代表作といえば『色ざんげ』と『おはん』ぐらいではないだろうか。
二人が別れたのが昭和10年というから、随分昔の話しだが、その別れに至った原因や東郷が故郷鹿児島で急死した件に関しては詳細を極めていない分、何か物足りなさを感じる。
 
つまるところ珠玉のエッセイというのは少し褒め過ぎのような気がする。
ただ、近代女流文学者で宇野千代ほどの美人は他に居ないだろう。
日本人離れした顔立ち、エロチックな雰囲気といい、流石に多くの男と浮名を流しただけのことはある。
故に、その作品よりは奔放な生活ぶりの方が有名になりすぎた嫌いがあると思うがどうだろう。
 

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定年オヤジ改造計画 垣谷美雨

 
唐突だが、夫源病という言葉を聞いたことがあるだろうか?
一般的にあまり聞かない単語たが調べてみると確かにある!
読んで字の如しというか、夫が原因の病気らしい。
定年後の夫を粗大ごみと呼び、熟年離婚が叫ばれて久しいが夫源病なる単語に興味を持ち、それらを題材にした本があるというので、早速、紀伊国屋に電話して確認をしてもらうと在庫は一冊、おっとり刀で飛んで行った。
一見、自己啓発本のようなタイトルだが、豈図らんや、れっきとして小説である。
 
主人公の家族構成は、60歳を一つ二つ過ぎたぐらいの定年退職した夫とその妻。
33歳の独身娘と30歳で妻子持ちの息子。
3歳と1歳の孫が居る、一見どこにでもある普通の家庭。
物語は退職後の庄司常雄なる主人公の暮らしにスポットを当て、まず、庄司が描いていた定年後の人生設計などが語られる。
 
妻、十志子と美術館や博物館を巡り、鎌倉を散策。
60代前半は欧米を周り後半はアジアを旅する。
70代は国内旅行、名所旧跡を妻と二人ゆっくり散策する。
結婚以来、大きな喧嘩もなく仲のいい夫婦だと思っていたが、実は、そう思っていたのは自分だけだった!
そんなバカな、信じられない、俺が一体何をしたと言うのだ、という話しが始まる。
 
40年近く、ひたすら家族の為に働き浮気もせず、仕事人間として生きてきた庄司。
退職当初は下請け会社で週4日の嘱託勤務が決まっていたが三カ月で会社は倒産。
以来、再就職はせず預金、退職金、65歳からの年金などを考え在宅が多くなってから妻の態度は冷たくなった。
先に定年を迎えた先輩たちを見ていると酒に溺れ、或は一日中テレビの前を離れない、自分は決してそうならないと自信もあったのに。
 
何十年ぶりかの本当の自由。
毎日毎日、何をして過ごしてもいい、これほどの自由は幼稚園入園前以来だ。
人間関係で悩むこともなく時間に拘束されることもない。
しかし、家庭内事情は思わぬ方向にずれていく。
聞けば、いつの間にか「主人在宅症候群」なる病気で心療内科を受診している妻。
娘にはいつしか「あんた」呼ばわりされ「古いのではなく間違っている」と非難される毎日。
挙句には息子に「オヤジって・・・なんかズレてる」とまで言われてしまう。
しかし、子供達になんと言われようが庄司の考えは変わらない。
 
古き良き時代は終わってしまい、今どきの母親が誤った道にどんどん入りこんでいる
 
だが、決定的な妻の一言が!
ある日のこと、急な用事で孫の世話を頼まれ息子夫婦の家に向かう車中で。
どうした訳か妻は助手席に座らない。
後部座席に座って窓を開ける。
 
「寒くないのか?」
「寒いですよ、でも息苦しいから」
「俺ってそんなに臭いのか?」
「閉所恐怖症なんです」
 
と、まどろこしい会話が続き庄司は意味が解らない。
そして妻がはっきり言う。
 
「私が閉所恐怖症になるのは貴方と一緒にいるときだけなんです」
 
更に医者からは、そういう場面は極力避けるようにと言われていると。
こんなことを言われた日にゃ夫たるもの、一体、どうしたらいいのだろうか。
定年後の夢が一気に崩壊していく。
娘にもダメだしを喰らう。
 
「こんな化石みたいな男と何十年も連れ添う女も大変だよ。母さんには心から同情するよ」
 
日々、やることと言えば図書館に行くぐらい。
そんな暇な時間を当て込んで息子夫婦から孫たちの保育園の迎えを頼まれ子育ては全て妻に任せて来た手前、何をどうしたらよいのか分からない庄司。
お漏らし、おやつ、本読みと疲れる毎日。
妻に愚痴を言うと、それを一日24時間、一年365日、私は毎日やって来ましたと反論される。
更に親友が離婚話しを言い出されたと打ち明けられる。
二人は話す。
 
「サラリーマン時代と違って毎日が日曜日だ。つまり、これからの15年間を考えると昔より約3倍の自由時間があるわけだ。それを有効に使うかぼうっと過ごすかの差は大きいぜ」
 
読み進めていくうち定年退職後の人生の悲哀を感じてしまう。
余談だが私には行き付けの喫茶店が4件ある。
うち1件はモーニング専用で通っている。
全席禁煙とあって朝っぱらから60歳以上のおばちゃんたちが席を埋め尽くす。
それを見て私は考える。
この人たちの旦那はどうした?
既に死に別れたか、元々独り身か、或は旦那とは別行動か、何れにしてもおばちゃんは1人ではあまり来ない。
朝から論壇風発、といっても世間話しだが。
 
がしかし、友達とよく待ち合わせに使う喫茶店は事情が違う。
こちらは全席喫煙OK。
更に新聞が置いてあるのでオジサンが約8割だが夫婦連れは殆ど居ない。
このような本が出るということは今の世の現状を訴えているのだろうか。
少子高齢化、晩婚、人口減少、交際相手が居ないなど、本書は結婚に幻想は禁物だと教えているようなものだ。
だがタイトルに「改造計画」とあるように孫の面倒を見ない息子を通して少しずつ考えを変えていくジイジ。
そのジイジはこんなことを言っている・
 
「いないいないばあをやると、異様に喜ぶんだが、この前教えてみたら30回もやらされたんだ。もう嫌になっちゃてさ。あれ、どうにか途中で止める方法はないかな」
 

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犬が星見た―ロシア旅行 武田百合子

 
昭和44年に約1ヶ月かけて旧ソ連領を旅した時の紀行文、或は日記といってもいいが、1日の出来事を平均して12ページぐらいは書いている。
どこを読んでも「ホテルへ帰り、日記を書く」というくだりはないが、見聞したこと使った料金などを実に細かく記載している。
感心するのはアルコールの量、体に悪いというぐらい飲酒が多い。
 
そもそも夫の武田泰淳から、
 
「連れて行ってあげるのだから、お前、日記を書けよ」
 
と言われて書き始めたものらしいが、素人のわりには自然な語り口がいいのか書評はどれもいい。
がしかし、行ったことのない地の紀行文というのは些か実感に乏しくましてや外国とあらばなおさらで、紀行文をあまり読まないタイプの私には多少退屈な面もあった。
 
ただ、半世紀近くも前の旅日記でもあることからして登場人物の全てが故人となっている点は感慨深い。
然し、微に入り細に入り、物事をよく観察し好奇心旺盛なおおらかな女性のイメージで好感が持てるタイプだ。
 

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クラシックホテルが語る昭和史 山口由美

戦争で都市を爆撃する場合、代表する高級はテルは好き好んで爆撃しないという説があるそうだが本当だろうか。
そもそも空襲がなかった奈良ホテルや箱根の富士屋ホテル、軽井沢の万平ホテルはともかく横浜のニューグランドホテルが戦災に遭わなかったのは不思議だ。
マッカーサーが厚木に降り立ち真っ先に向かったのがこのグランドホテル。
第一生命ビルも被害に遭わずGHQの総司令部になっている。
あながちデタラメの話しでもなさそうだ。
 
本書は山口由美なるノンフィクション作家によって書かれたものだが、全く知らない人で経歴を見ると曽祖父が富士屋ホテルの創業者とある。
それ故か、国内のクラシックホテルに留まらず占領政策の一環として日本軍によって接収された大東亜共栄圏内の名だたるホテルの歴史などを紐解き占領軍に拠って接収されるホテルの歴史と運命を掘り下げている。
 
本作には直接関係ないが松本清張の『昭和史発掘2』に佐分利公使怪死事件という項目がある。
昭和4年11月29日朝、公使が射殺体となって発見された事件で鑑定の結果、自殺と判断され落着されているが、仔細に読んでみるとどうも不可解至極。
自殺に見せかけた他殺と取る方が妥当な判断で松本清張もそのような推理を展開している。
事件の舞台となったのが箱根宮ノ下富士屋ホテルなのだ。
 
本書ではそれには触れず昭和19年11月末辺りから物語を初めている。
よく知られるように開戦要因の一つとなった「日米了解案」を巡っての交渉は第二次近衛内閣の16年4月からだが当初は野村駐米大使とハル国務長官の折衝だったが、更に来栖三郎が特命全権大使として加わり開戦ぎりぎりまで交渉は続けられた。
 
かなり以前、NHK特番でも取り上げられていたが前年の11月末にウォルシュとドラウトという二人のアメリカ人神父が来日し、欧州戦争が本格化する前に、太平洋の日米関係を正常化しておく必要で産業組合中央金庫理事の井川忠雄と陸軍省の岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐の4人による協議が非公式ながら始まっていた。
そして纏められたのが「日米了解案」。
この案に政府や軍部も同意し、日米交渉は進展するかに見えた。
 
然し、思わる障害が立ち上がった。
ソ連、ドイツ、イタリア歴訪から帰国した松岡外相が猛反発。
日米了解案は三国同盟の趣旨に反するというのが理由だった。
従って近衛は内閣を解散、松岡を外した第三次近衛内閣の発足となり交渉は進められたが7月25日、米側は日本資産の凍結。
28日、日本軍、南部仏印進駐。
それらの足取りを追って著者はウォルシュが16年8月24日早朝に箱根富士屋ホテルに到着した記録を見つけ滞在期間は9月2日まで。
アメリカにいるドラウトとの間で緊迫した電報の遣り取りをしながらゴルフ、読書、書き物をしていたと『井川忠雄 日米交渉資料』は伝えている。
 
8月17日、野村大使との会談で交渉再開を提案したルーズベルトの提案はアラスカでの巨頭会談。
戦争回避に向けた両者の最後の歩み寄り。
その準備のため近衛首相は富士屋ホテルで、井川、松本重治、牛場友彦、西園寺公一を集め会議の際の案を練る。
しかし、9月1日、ドラウトからウォルシュへの電報には「今後、通信できなくなった」とあり、更に10日の電報には「井川渡米の必用なし」とある。
開戦阻止の希望が消えた瞬間だった。
それらの舞台となった富士屋ホテル、または隣接するオーナーの別荘、午六山荘でのスリリングな模様を著者は克明に抉り出している。。
 
ところで全国にクラシックホテルが何軒あるか知らないが本書には数多くのホテルが登場する。
日光の金谷ホテルもそうだが、この手の有名ホテルには大抵憲兵が現れたとある。
事もあろうに政府の要人ばかりか総理の動向まで見張っていた。
さて、冒頭にも書いたが有名ホテルには本当に空襲がなかったのか?
例えば箱根だが終戦まで確かに空襲はなかった。
意図的か偶然かそれは判らないが仮に意図的だった場合の理由は。
記録によると箱根には3,119人の外国人が滞在していた。
それを知ってアメリカ軍は敢えて爆撃の対象から外したのだろうか?
更には占領後の司令部、または士官、将兵の宿舎として使うため。
 
箱根にあった強羅ホテルについても少し触れておく。
現在は、その姿を留めていないが終戦工作の舞台としてたびたび登場することで有名なホテルだ。
昭和16年4月、松岡外相がモスクワで調印した日ソ中立条約を20年4月5日、ソ連は残り期間、一年となった時点で不延長を通告してきた。
ドイツ降伏後、3か月以内に対日参戦を行うとヤルタ会談での密約があり、それを全く知らない日本政府はソ連駐日大使マリクと広田元首相を和平工作のため秘密裏に接触させることを計る。
戦争継続派にしても本土決戦はソ連参戦がないことが絶対条件。
 
東郷外相は広田に「たまたま」を装って強羅ホテルに訪問することを指示。
これは駐ソ大使、佐藤尚武が言うようにまったく馬鹿げた交渉でソ連を仲介役に選ぶなど明らかに東郷外相の判断ミス。
然し「たまたま」のシナリオは6月3日に第一回折衝があり三回目は同24日、続く第4回目は29日、東京のソ連大使館で行われ、政府は近衛元首相を特使としてモスクワ派遣を提案したが実現しなかった。
ソ連を仲介役に選ぶということが如何に非現実的なことか気付かないところに当時の政府の哀れさが伺える。
その強羅ホテルも接収の時代を経て平成10年、その役割を閉じた。
 
さて、私が間近で見たクラシックホテルといえば横浜ニューグランドホテル、愛知県の蒲郡ホテル、それに奈良ホテルしかないが、その奈良ホテル、門前の小僧ではないがあまりに敷居が高いので面前で見るだけ、中に入ったことは一度もない。
本書を読むまで知らなかったが終戦翌月の9月まで、ここにはフィリピン亡命政府の本部だったらしい。
ラウレル大統領夫妻を始め、閣僚ら17名が滞在していた。
現在「桜の間」には1969年に建てられた大統領の胸像があるというが、今度、行った時に見たいと思うがどうだろう。
 
 
この写真は確か17年大晦日に撮ったものだと記憶するが問題の横浜ニューグランドホテルの二階、正面入り口から続く階段を上がるとエレベーターがある。
マッカーサーが来館したのは昭和20年8月30日。
厚木に降り立った後、直ちにやって来た。
当時のフロントはこの左手にあり、時刻は午後3時過ぎ。
元帥到着前に先遣隊の米兵がピストルがないかと抽斗という抽斗を徹底捜査。
元帥の車が到着すると後続してきた空挺部隊がホテルの周囲に配置され、元帥は階段を上がり、この写真と同じ光景を見たことになる。
実に感慨深い。
それから7年間、日本はアメリカの占領下に入る。
元帥にとっては5度目の日本滞在。
二度目の妻との新婚旅行も、ここニューグランドホテルだった。
 
話しが長くなっているが満州を始めとして大戦中、日本軍が接収したアジア各地のホテルは必ず地域名の後に「ヤマトホテル」と付ける習わしがあったようだ。
例えば奉天ヤマトホテル、大連ヤマトホテル、その走りとなったのが初代満鉄総裁の後藤新平伯。
 
「何でもかでもヤマト・ホテルでなければいかぬ」
 
の鶴の一声。
占領下のホテル接収に伴い軍は日本のホテル企業に受託運営を任せ、その数31軒。
逆に日本占領と共に連合軍に接収されたホテルは全国で101軒。
因みに二・二六事件で反乱軍が拠点とした山王ホテルが所有者に返還されたのは何と昭和58年。
最後に富士屋ホテルの社長山口正造と日光の金谷ホテルの経営者、金谷眞一は兄弟だが正造が眞一に宛てた手紙にはこのように書かれている。
 
私の千石原の別荘に近衛公が来て居られる。そしてアメリカからルーズヴェルト大統領の密使が潜入して、今富士屋ホテルに居る。そして日米の感情の打開と、何とか平和を確保しようと、最後の努力が傾けられて居る。然しこれは、絶対秘密であって、軍部は全然知らない。軍部に知れたら、大変なことになる。これは誰にも話しては困る。
 
しかし、富士屋ホテルには憲兵が張り付き和平模索の道を探る首相と雖も監視される、そんな時代だったのだ。
 

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731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く 青木冨貴子

 
731部隊の人体実験に関する詳細は以前何かの本で読んだが、本書は人体実験を主題にしているのではなく著者が探し出した石井中将自筆ノートの解明を主題にしている。
千葉県の大地主だった石井家の繁栄と戦後の凋落、GHQとの取引で石井を含め731部隊関係者全員の戦犯免訴など。
 
著者は女性だが恐ろしいまでの執念で部隊関係者の戦中戦後、またどの程度の資料がアメリカ側に渡ったのかを追跡している。
米ソが必要以上に石井が持つ資料を欲したのも将来起こり得る細菌戦による備えということらしい。
 
しかしアメリカに渡った『19人の医者による人体実験リポート』
8000枚の病理標本は現在行方不明で、この本には生々しい生体実験の様子などは出て来ないが、実際、どれだけおぞましい実験が為されたかと思うと見も毛もよだつ。
戦時に於ける人間の残虐性、家族思いの普通の人が、悪魔の所業に手を貸してしまう恐ろしさ。
隊員の多くは戦後日本の医療関係の礎を築いた人々。
 
石井中将は隊を解散するにあたって、ここで行われたことは墓場まで持っていくよう他言してはならぬと鬼の形相で言ったらしいが、結局その約束は守られなかった。
普通のお父さんが戦時には悪魔と取引きが出来る、非人間的なリアリズムこそが人間の内面に隠されているのかと思うとやはり人間こそは一番怖い。
731部隊が行ったことは人間の良識として徹底的に暴かなければならない。
 
因みに石井軍医中将は戦後極めて早い時期に帰還している。
全ての資料は焼却するという命令を無視して多くの資料を持ち帰った。
少なくともソ連側に逮捕されるよりはましであったか。
 

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大正美人伝―林きむ子の生涯 森まゆみ

 
林きむ子とは所謂、大正三美人の一人で林姓は再婚相手の名前。
九条武子、柳原白蓮と並んで世情を賑わした美貌の持ち主だというが、なるほど、写真を見ると品性と知性にも恵まれていた才媛なのだろうか。
義大夫語りの娘で、新橋料亭「浜の家」の養女となり代議士婦人としてサロンの女王とまで言われていた。
「浜の家」と言えば右翼の大物、頭山満杉山茂丸の贔屓先としても知られている。
 
きむ子は多才な女性で芸事百般を修め、神学、仏語、美術、国漢、和歌、乗馬、自転車、柔道なども習得、女性解放運動にも取り組み、まさに賢婦人の誉れ高い女性だったが大正時代のある疑獄事件に夫が関わり拘束されたのを機に家計は傾く。
更に保釈後に夫が狂死。
その後は美人は身を助くとでも言うか、6人の子持ちながら9歳年下の詩人、林柳波と一年以内に再婚。
生涯8人もの子を生している。
 
ともかくも、著者、森まゆみは殊更近代史に詳しい。
本書にしてもそうだが、林きむ子に関わった人の略歴など話しが脇道にそれること甚だしく多彩な人物を登場させている。
中でも頭山満杉山茂丸にはかなりのページ数を割き、まるで明治の政界史を読まされているような錯覚に陥る。
 
とにかく、この人の本はあまり一般向きではない。
まるで敏腕刑事のような調査能力でほとほと舌を巻く。
だが、世間が絶賛するほどの美人となれば一度は拝みたいのが人情。
映像などはないものか。
美人にして芸事に関しては人一倍厳しい女性だったとあるが、明治女の意気地、斯くあらんか。
因みに藤田まことは彼女の甥にあたる。
 

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