愛に恋

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帰ってきたヒトラー 下 ティムール・ヴェルメシュ

 
う~ん・・・、何と言うか!
とにかく、この小説は読むより映画で見た方がいいと思う。
そう簡単な作品とは思えない。
600頁近い大作で全編、ヒトラーの独白と言っていい。
それも政治哲学的な話しが専ら。
 
現代に現れたヒトラーは徹底的に「オレ文脈」でのみ発言し、故に現代人とは会話が嚙み合わない。
つまり現代人はヒトラーヒトラーとは思わず飽く迄も物まね芸人と見ている。
そこが作者の狙いだが、会話は誤解と齟齬の連続。
例えばこんなやり取り。
ある新聞社からインタビューを申し込まれた時の会話、相手は女性記者。
 
「あなたのパスポートを見せていただけませんか?」
「あなたはインタビューの相手に、いつもパスポートを見せるように要求しているのか?」
「いいえ、自分の名をアドルフ・ヒトラーだと主張する方々にしか、そんなことは要求しません」
「それで、そういう人物はどのくらいいるのか?」
「おだやかな言い方をすれば、あなたが最初の方です」
 
この作者、かなり優れた物書きだと思う。
荒唐無稽な作品だが、こんな題材を嘗て読んだことがない。
本物であるにせよ偽物であるにせよヒトラーはあらゆる視点から現代というドイツを観察し分析し問いかける。
ヒトラーが現在のドイツに対して警鐘を鳴らすのはおかしなことだが、1945年との違いを彼自身が検証するような書き方になっている。
 
要は嘲笑とユーモアを通じて過去と向き合う。
斬新な歴史の解釈という言い方もできる。
それに、ここに出てくるヒトラーはどうも憎めない。
ただ、作者はヒトラーを通じてこんなことを言わしている。
 
「ネズミの駆除に反対する人はいない。だが実際問題、一匹のネズミを自分が殺そうとすれば、つい同情の念が大きくなる。ところがここが肝心なところだ。これは、そのネズミを生かしてもよいという同情であって願望ではない。この二つを取り違えてはいけないのだ」
 
まあ、これはあくまでも小説上のヒトラーの論理だからここでとやかくは言わない。
最後に、これをもし日本版でやったらどうなるか?
東條英機が現代に蘇ったら・・・!
風刺小説に成り得るだろうか。
 
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帰ってきたヒトラー 上 ティムール・ヴェルメシュ

 
ここ最近、評伝やノンフィクションばかり読んでいるので、たまには毛色の違ったものをということで選んだ本だったが。
何でも本作は空前の大ベストセラー小説で、42言語に翻訳され250万部を売り上げた作品で映画の観客動員数も240万人。
ということで上下巻購入し、暫く棚に寝かせ、先日から読み始めたはいいが、これがなかなかそう簡単ではない。
風刺小説と銘打っていて確かにユーモア満載とも言えるが殆どの紙数をヒトラーの思想信条に費やされ、言うなれば『わが闘争』の現代版をこれでもかというぐらい読まされる。
 
作者がヒトラーに語らせているのかヒトラーが作者に語らせているのか、とにかく冗舌で、余程、ヒトラーを研究したのか、徹頭徹尾、そのブレない思想を語らせ、鉄の意志をユーモアに変えて物語を進行させている。
 
2011年、ヒトラーはベルリンのとある空き地で66年ぶりに目覚めるところから幕開け。
ここは何処か?
今はいつだ?
近くの広場では少年がサッカーをしている。
まさしくヒトラーユーゲントに違いない。
見れば、直ぐそこにキヨスクがあり、ヒトラーは今が何年なのか新聞で確かめる。
 
そこへ現れたキヨスクの店長。
何処かこの辺でロケでもしているのかと尋ねる。
見るからにヒトラーそっくりな男。
話しも筋が通って理路整然。
しかし、妙に軍服が灯油臭い。
それもそのはず、ヒトラーの最期は自殺した後に灯油をまかれて燃やされたため。
そこで店主、とにかくその服をクリーニングに出して客寄せのため、少し店を手伝ってくれないかと頼む。
 
店主はあまりにも奇抜なこの男を気に入り友人のテレビ局関係者に紹介、ヒトラーは軍服をクリーニング店へ。
そこで見た看板には!
 
「電撃クリーニングサービス」
 
その後、テレビ局へ連れて行かれスタッフの前で演説ぶるが、それが堂に入って頗る面白い。
何しろテレビ関係者は彼をヒトラー似の芸人として見ているわけで、尚且つ雄弁で台本なしのアドリブで捲し立てる姿にすっかり魅了され筋金入りの芸人と見る。
しかし、当のヒトラーはいくら皆から褒められても、それが当然の如く振舞う。
何しろ、自分は正真正銘のヒトラーなのだからと。
 
そしてヒトラーはパソコン、携帯、テレビ、youtubeと現代の文明の利器を通じ少しずつ国民にアーリア人種の優越、ナチズムの復活を訴える。
物語はヒトラーが自分らしさを見せれば見せるほど素晴らしいコメディアンの出現として世間は受け入れていくのだが、その後は後編に続く。
 
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沖縄の島守 内務官僚かく戦えり 田村洋三


發 沖繩根據地隊司令
 
沖繩縣民斯ク戰ヘリ
縣民ニ對シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
 
自決を一週間後に控えた昭和20年6月6日夜、沖縄の海軍司令官大田実少将が海軍次官に宛てた電文は世界史にも類例を見ない悲痛な名文として名高いが、今日、太田司令官の名と共に、この全文面を読んだ人は決して多くないと思う。
 
沖縄戦に関しては自決した第32軍司令官牛島満中将、長勇参謀長、そして太田実少将の書籍など出版され、それぞれ読んでみたが、捕虜になった八原博通高級参謀が著した『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』だけは未読なので、何れ機会があれば一読してみたいと思っている。
しかし、最近になって『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』を書いた太田洋三氏の著書に殉職した島田叡(あきら)知事と荒井退造警察部長を扱ったノンフィクションがあると知って俄然、興味を持っていた矢先、偶然にもブックオフで見つけ勢い買ってしまったはいいが意外と難儀を極める本で、読み辛い人名と地理的状況が全く分からず、軍の作戦計画や南部への逃避行など混迷を深めながらも何とか読了。
 
さてと、本題だが当時の知事は現在のような民選ではなく、政府が任命する官選で確か任命権は内務大臣が持っていたと記憶する。
島田知事が沖縄に赴任する前、政府は昭和19年7月7日、沖縄県民の60歳以上、15歳未満老幼婦女子と学童を本土と台湾へ集団疎開させることを決定。
理由はサイパン玉砕で島民5万が軍の懐に入り込み、活動を妨害したとのことで、沖縄本島の場合、42万の島民を5万乃至10万ぐらいまで退去させなければ再びサイパンの轍を踏むことになる、簡単に言えば足手まといことだと思うが、県民意識は家族が離散するのを由としなかったようだ。
 
沖縄は戦場にならないという人も居るにはいたが、県民は差し迫る不気味な戦況を肌で感じながらも「どうせ死ぬなら、一家そろって沖縄の土になる方がまし」という思いが強く、また周辺には米軍の潜水艦も出没するとあっては二の足を踏むのも当然。
果たして10月10日、沖縄は大空襲に見舞われ、いよいよ上陸間近と軍官民を慌てさせる。
 
そんな折、昭和20年1月11日、大坂在住の内政部長で、妻と二人の娘を持つ島田に沖縄県知事の内命が下る、時に島田43歳。
戦火の迫る沖縄赴任に、
 
「私たちはどうなるのですか」
 
という妻の反対を押し切り、正義感の強い島田の決意は変わることがなかった。
実はこれには裏事情があり、沖縄からの脱出を画策していた前知事は19年12月23日「現地軍から要請があった県内疎開を政府と協議する」との名目で上京、そのまま香川県知事に転出し帰って来なかった。
この時期、内務官僚の中には何かと事情を見つけて本土に渡り、帰還しなかった職員が続出。
1月31日、出発に当たって島田が持参したものは以下の物。
 
『南洲翁遺訓』『葉隠』抹茶道具、和服、博多帯、胃腸薬、風邪薬、ピストル二丁、日本刀、青酸カリ。
 
そして・・・!
 
2月7日、米機動部隊はウルシー泊地を出発、沖縄を目指す公算大
 
という軍情報が伝わると『沖縄新報』社説は上司の許可なく戦線離脱する官公吏を痛烈に批判、これに敢然と立ち向かい、優れたリーダーシップを発揮する二人の人物が即ち島田叡知事と荒井退造警察部長ということになる。
米機動部隊は2月19日、硫黄島に襲来。
硫黄島玉砕を経て、いよいよ4月1日、沖縄戦となるが本稿は沖縄戦そのものが主題ではないので戦況経過は省く。
 
沖縄の悲劇は軍が首里撤退を決めたことから始まるが、5月25日、荒井警察部長は内務省警保局長に対し電報を打つ。
 
60万県民只闇黒なる壕内に生く、此の決戦に破れて皇国の安泰以て望むべくもなしと信じ、この部民と相倶に敢闘す
 
県から内務省への通信連絡は27日を持って途絶え、6月18日夕、牛島司令官は決別電報を打電。
 
陸海空を圧する敵の物量制し難く、戦局正に最後の関頭に直面せり
 
死を目前に毎日新聞支局長と島田知事の会話が記録されている。
 
「知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、出られても良いのではありませんか」
「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう?」
 
6月21日、総攻撃前に米軍スピーカーの放送が流れる。
 
「只今から総攻撃を開始する、戦闘に関係ない者は壕から出て、東へ行け」
 
そして運命の日、牛島司令官、長参謀長は6月23日午前4時30分、軍司令部壕で自決。
島田叡知事と荒井退造警察部長の最後がどのようなものであったかは分かっていないが、内務省は島田と新井が軍医部壕を出たと思われる6月26日を死亡日と認定。
日本政府は沖縄が米軍政下に入った11月、GHQに二人の安否を照会。
翌年の回答では。
 
該人物は1945年6月中旬、摩文仁に現れたるが最後なり、また二人が俘虜たりし事実も発見せられず。
 
これにより二人の殉職は確実となった。
著者は沖縄空襲で焼失した県庁の代わりにガマと呼ばれる洞窟に身を寄せ執務を執った知事、警察部長の足跡を追いながら、落ち延びて行く過程で臨時県庁とされ長らく不明になっていた14カ所のガマを発見。
その執念には驚かされる。
 
しかしどうだろう!
県民の安全、少しでも多くの人を助けたい。
それに尽力した知事と警察部長。
いくら職責とはいえ文官としての努力にも限度がある。
空襲、艦砲射撃、果ては火炎放射器と村も人も焼き尽くす凄惨な戦い。
 
少なくとも島田叡は辞令を受けた時点で拒否することも出来た。
ましてや家族の反対もある。
しかし荒井は言う。
 
「私が行かなければ、誰か他の人が行くことになる」
 
家族の悲痛な願いを遮って決然と死地に赴く。
私なら出来るだろうか!
自信が持てない。
 
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拙者は食えん! サムライ洋食事始 熊田忠雄

 
別に戦後の食糧難の時代に生まれたわけでないのだが、我が家は比較的貧乏な家柄。
その所為もあって私がトマト、納豆、フキなどを初めて食したのは小学校も5年になってからのこと。
特に驚いたのは納豆だった。
あまりの臭さに、これはウンコの類ではないかと思ったぐらいだ。
思えばあの頃は、まだ一般庶民にとって海外旅行は夢のまた夢。
新婚旅行と言えば熱海が定番の時代。
海外のことは『兼高かおる世界の旅』を見るぐらいが関の山。
 
そこで今回、取り組んでみた本がこれ。
武士はどのように洋食と格闘したかという面白い題材。
この本によると日本人ほど食べ物に忌避感を持たぬ民族は世界でも稀だとある。
明治になって肉食が解禁されてからというもの、タブーとされる食べ物はなくなり、日本人は何でも食べる雑食系の民族となってしまったらしい。
 
しかし、幕末、洋行した侍たちは洋食に対し激しい嫌悪感と忌避感を覚え、その思いを率直に書き残している。
例えば青木梅蔵なる人の日記にこうある。
 
「パン、牛肉ノ焼モノ様々、コトゴトク嘆息ナシタリ、パンハ別段臭気ナケレドモ何トヤラ気味悪ク、牛ハ猶サラナリ。サレバトテニ日三日此カタ食事トテハ一切イタサズ、空腹モ亦堪エガタシ。
コノ処ヘ至リ、空腹飢餓ニ陥ルコトイカナル事ノムクイカト世ニ馬鹿々々シク、只々嘆息ノハテ、ナミダニクレ、神仏ニ祈ル外ナカリケリ」
 
と悲憤慷慨。
幕府が万延元年の開国後、最初の使節団をアメリカに派遣してから明治維新を迎えるまでの八年間、欧米諸国に渡航した日本人は延べ400名を超える。
トップバッターは日米修好通商条約の批准書交換のため、ワシントンへ派遣された総勢77名。
この時にアメリカのフリゲート艦ポーハンター号に同行したのが有名な咸臨丸というわけだ。
 
洋食を食べ慣れないこともあって多くの武士が不平不満を日記に書いているが、アメリカ側も黙ってはいなかった。
日本側では相当数の日本食を船に持ち込もうとしたが、中でも異臭を放つ味噌と沢庵はアメリカ人の頭痛の種。
通訳を通じて何とか説得するがハワイに近づいた頃、俄かにひと悶着。
 
「日本味噌・醤油ノ樽シミ出テ夷人不機嫌不精也、夷人ノ品ハミナ、フリツキニ入レタレバ、シミ出ル事ナシ」
 
フリツキとはブリキのことらしい。
日本側の不平としては、牛、豚、羊の肉ばかりで魚、刺身などが少ない。
またはパンが多くバターに馴染めない。
 
「塩淡クシテ食スル能ワズ」
 
と、塩味がないことに不満を述べ、更に、赤ワインが飲めない、しかしシャンパンは尋常ならざる飲みっぷりとくる。
故に。
 
「凡世界中食物風俗一様ナル中ニ、我国独異ナレバ、異域ノ旅行ノ難儀ハ筆ニモ尽クシガタキ事ドモナリ」
 
不平は続き、小刀、熊手が使えない。
小刀はナイフ、熊手はフォークのことで、その他にスプーンもある。
また、コーヒーが苦くて飲めない。
それぞれの日記には呼び名を「カシフイ」「カウヒン」「カウヘイ」「茶豆湯」などと散見される。
しかし、福沢諭吉だけはこのように言っている。
 
「食堂ニハ山海ノ珍味ヲ並ベテ、如何ナル西洋嫌イモ口腹ニ攘夷ノ念ハナイ」
 
渡航した日本人は何も武士ばかりではなく下働きの者もおり、中でも青木梅蔵の日記が面白い。
 
「オノレ此時ツクヅク考エルニ御役人ハ拠無キ上命ナレバ栓方ナケレドモ、我等ニ至ッテ種々手ヲ入レ、他人ニ気兼ヲナシ、コノ処ヘ至リ、空腹飢餓ニ陥ルコトイカナル事ノムクイカ、世ニ馬鹿々々シク、只々嘆息ノハテハ、ナミダニクレ、神仏ニ祈ル外ナカニケリ」
 
御役人は上命で仕方ないが我等は何故このような酷い目に遭わなければいけないかと嘆いている。
 
また、汽車に乗った折り、時々停車する理由がトイレのためと知らず。
 
「両便ニハホトホト困リタリ、夫ニ付キ、可笑シキ事アリ。車中ニテ大便ヲ山盛ニ致セシ人アリ」
 
何と、耐えきれずに車中で脱糞したと言うのである。
最後に日本人を驚かせた光景を二つ書いておきたい。
アメリカに到着以来、何処へ行っても熱狂的な歓迎を受けた使節団は連日連夜、日程が組まれ、知事や市長と面会、会食、市内の視察、へとへとになった挙句に歓迎舞踏会。
 
「男女組合イ幾組モ限リ無ク踊ルトハ言エド、只クルクル回ルノミ。能程ニ断テ
(頃合いを見て)各部屋ニ帰リテ伏シケルガ、暁迄ダンス壮ナル由。カカルダンスハ彼ハ(この国では)大饗(格別なもてなし)ナル由ニテ新聞ニモ記シテ誇リタレド、其迷惑ノ事ドモナリ」
 
つまり、日本人は誰もダンスを踊れるものがなく、疲れているのに只、永遠とくるくる回るダンスを見ているだけでいい加減にしてくれと言っているわけで。
次に、彼らがエジプトでミイラを見た時の感想。
 
「最モ驚キタルモノハ昔人ノ身体ヲ歴然トシテ蔵シ、置ケルモノナリ。人体ノ如キ形
ヲ木ニテ制シ、彩色金銀等ヲ施シ、ソノ中ニ人体ヲ薬ニテ浸シテ蔵ス」
 
因みに彼等はピラミッドを「三角山」スフィンクス首塚と言っている。
まあ、とにかく洋行した幕末の侍たちは見るもの、聞くもの、乗るもの、食べるものと全て驚きの連続。
もし、この頃に映写機があったならどれだけ現代人を喜ばせたことか。
それにしても何十日もの船旅で来る日も来る日も食べ慣れない洋食とはいやはや大変な航海でしたね。
 
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海軍大将加藤友三郎と軍縮時代 工藤美知尋

明治日本では薩摩の海軍、長州の陸軍などと言われるが、日清戦争時の内閣と陸海軍の主要人事を見ると以下の如くになる。
 
総理伊藤博文(長)外務陸奥宗光紀州)。
陸軍は陸相大山巌(薩)次官児玉源太郎(長)川上操六(薩)山縣有朋(長)
野津道貫(薩)奥 保鞏(小倉)桂太郎(長)黒木為楨(薩)。
伊東祐亨(薩)。
奥 保鞏を除いて全員が薩長
 
日露戦争では首相桂太郎(長)外相小村寿太郎(日向)満州軍総司令官大山巌(薩)陸相寺內正毅(長)海相山本権兵衛(薩)連合艦隊司令長官東郷平八郎(薩)伊東祐亨軍令部長(薩)乃木希典(長)児玉源太郎(長)。
 
その間、加藤友三郎は何をしていたかというのが本題だが、評伝によく見られる出世までの経歴、特に軍人の場合は簡単に昇進の過程が記載される程度で、加藤の場合、出番は日露戦争になるまではこれといってない。
日本海海戦時、加藤は連合艦隊参謀長として旗艦三笠で東郷長官の左に立っていた。
 
友三郎は文久元年に芸州藩下級武士の子として生まれているが、芸州藩は第一次長州征伐の折り幕軍として参戦した経緯がある。
維新後、明治17年に海兵7期として卒業。
日清戦争では砲術長として「吉野」に乗船。
その後、海軍次官鎮守府司令長官を経て、第二次大隈内閣の海軍大臣に就任。
大将に昇進後は、寺内、原、高橋と四代にわたって海相を歴任。
 
しかし、元帥海軍大将加藤友三郎の名は現在では全く忘れられてしまったが「アドミラル・カトー」に対する評価は欧米では圧倒的らしい。
大正10年7月2日、米大統領ハーディングは日・英・仏・伊に対し非公式に海軍軍縮会議を提案。
これに対し、原首相は全権代表に海相加藤友三郎を指名。
 
日露戦争後の日本海軍は仮想敵国をアメリカに定め八・八艦隊、つまり戦艦八隻、巡洋艦八隻を目標としていたが、その維持費は当時の日本の国力からは到底不可能で、ワシントン海軍軍縮条約は日本にとって渡りに船。
議題は英米10の艦船量に対し日本側は7という要望だったが、結局、加藤は対米英比率、6割で条約を可決し自らの手で八・八艦隊構想を葬り去った。
何しろ当時の国家予算内で、32・5パーセントという膨大な額が海軍予算。
 
加藤の名は一躍世界に広まり米敵対路線から日米友好協調路線への転換と受け止められた。
しかし、アメリカ出張中に原首相が暗殺され替わった政友会の高橋是清内閣も短命、元老松方正義と西園寺は協議の結果、首班指名加藤大将を推薦。
大命を拝受し死力を振り絞って政務に励む加藤だったが、既に大腸がんに侵され余命幾ばくもなかった。
 
加藤の方針は将来を見越し英米のように日本も文民統制であるべきだとの主張。
そもそも軍部大臣現役武官制は第二次山縣内閣の時代に出来たものを山本権兵衛内閣の折り、現役に限らず、予備役や退役の将官まで広げ改められていた。
また加藤は軍令部の廃止も提唱しており、かなり思い切った斬新な改革だが、それだけに身内の敵も多かった。
しかし、アメリカは加藤が首相になったことに好意的で、いよいよ日本も平和路線に舵を切り替えたと思った矢先、大正12年8月24日加藤は逝去。
現役総理の死去は原に次いで二人目。
 
その後、勲功により子爵、大勲位菊花大綬章、元帥を賜わるが、もし、加藤が長命であれば昭和5年ロンドン軍縮会議後の海軍部内での分裂や統帥権干犯問題、或は日米開戦も起こらなかったかも知れないと思うとひたすら残念な気持ちになる。

SHONAN逍遙―文豪たちが愛した湘南 桝田るみ子

 
以前泊まった藤沢の宿で貰ったマップに明治以降、如何に多くの著名人がこの辺り一帯に別荘、または家屋敷を構えていたか、その多さを知って驚いた。
広田元首相の妻静子さんが自害した広田家別邸、芥川、白樺派の逗留地、東屋などは鵠沼にあり、茅ヶ崎には団十郎、音二郎の別荘、そして国木田独歩終焉地として新聞に載ったことが一躍、この地を世間に知らしめることになった。
 
平塚雷鳥山田耕筰茅ヶ崎に住み、江の島は広田首相、新婚旅行の場所でもある。
鎌倉には多くの文人墨客が居を構え、別荘族の走り有島武郎は勿論、漱石、芥川、川端、白秋、太宰と鎌倉に所縁のある文士には事欠かない。
 
この本は茅ヶ崎在住の女性が書き集めたものを一冊の本として上梓したものだが、おこがましいとは思いながら、些か私と感性が似た方だと思わずにはいられない。
ところで、明治以降、何ゆえこの辺りが文化人の保養地になったのかよく知らない。
結核療養の地、または風光明媚な場所として適していたということだろうか。
 
温泉地としての湯河原もほど近く、都会育ちの私としては憧れの地と言ってもいい。
ただ、雨嫌いな私としてはアーケード街がないのが難点。
しかし、余暇を踏みつぶしながらこの本に載っている名所旧跡を探索するのも一考。
 
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最高殊勲夫人 源氏鶏太

 
私の最近の読書傾向と言えば専らノンフィクションか伝記評伝の類。
推理小説やエンターテインメント系の本はあまり読まなくなってしまった。
ある面、堅苦しいったらありゃしない。
そこで閑話休題のように時折、手にするのがちくま文庫なのである。
まるで筑摩書房の営業戦略会議のカモにでもなったように獅子文六阿川弘之源氏鶏太を買い求めている。
 
10代の頃には目もくれなかった源氏鶏太
しかし、昭和30年代の大衆小説が殆ど絶版の憂き目に遭い入手出来なくなる、そこを狙ってか著作権の切れた本で勝負に出る、そう勘繰りたくなるのが筑摩書房なのだ。
確かにどれもこれも面白いが直ぐに忘れてしまう危うさが大衆小説たる所以なんだろうと思う。
 
ハラハラ・ドキドキと言えばサスペンスものだが大衆小説に必要なのはイライラ・カリカリではなかろうか。
その点ではこの小説の面白さは抜群で、内容は到って単純、主人公の二人が結婚するか否か、そこがイライラさせられて痛快至極。
 
主要登場人物は三つの家族。
一般サラリーマンで定年を間近に控えた野々宮夫婦と一男三女。
三姉妹は順に桃子、梨子、杏子。
 
三原商事の社長の息子が三兄弟で、一郎、二郎、三郎。
大島商事社長の一男一女、武久と富士子。
 
まず、野々宮家の長女桃子が三原商事の秘書として働き先代社長の死後、長男一郎の嫁になって社長夫人になる。
秘書の後釜には次女梨子が座り、やがて次男の二郎と結婚し専務夫人となる。
そこで社長夫人となった桃子が一計を案ずる。
三女杏子も三男三郎と結婚させてしまおうと。
 
しかし、野々宮の父は内心反対。
ただでさえ世間からは玉の輿と言われているのに尚且つ三女まで三原商事の息子と結婚させては如何にもバツが悪い。
肝心の三郎と杏子も姉の策略に乗ってなるものかとそれぞれ恋人を見つけようとする。
 
幸い三郎だけは大島商事に勤めており、その縁で大島家の令嬢との結婚話しもちらほら。
更に大島家の長男武久も三女杏子に求婚。
しかし、一郎と桃子は三郎を何とか三原商事に戻して会社と三原家の安泰を計りたい。
もし、杏子が武久と結婚すれば将来は大島商事社長夫人。
三郎が富士子と結婚すれば大島家の重役は約束されることに。
格の上では三原商事より大島商事の方が上。
 
だが、二女が結婚した後に三原商事の秘書に収まったのは又しても姉妹三女の杏子。
絶対に三原商事には戻らないと言い切る三郎。
周囲の再三の説得にも結婚に応じない三郎と杏子。
はたして二人は結婚するのだろうか。
三兄弟と三姉妹が繰り広げる結婚問答。
果たして結末や如何にというところですね。
 
余談だがこの『最高殊勲夫人』というタイトルはあまり内容と合致していないような気がするのだが。
 
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