愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

ぽんこつ 阿川弘之

 
例に拠って筑摩文庫、ユーモア小説の復刊、阿川弘之作品の第二弾である。
思うに、昭和30年前後のこれら大衆小説は殆どが絶版の憂き目にあっていることは間違いない。
例えば今日、石坂洋次郎などを読む人がいるだろうか。
おそらく本人たちも将来、自分らの作品が残るとは思っていなかったのではないだろうか。
 
しかし、だからと言って読むには値しないと言っているわけではない。
戦後の混乱期を経て、池田首相の言う「もはや戦後ではない」という時代の風俗や若者の結婚、恋愛観を知るにはまずは最適な作品とも言える。
映画産業が娯楽のトップだった頃には文藝作品、時代劇と並んでお手軽ものとして欠かすことの出来なかった原作ではないだろうか。
 
本書は昭和34年9月から翌年10月まで読売新聞で連載されたものらしいが、調べてみるとやはり、昭和35年佐久間良子主演で映画化されている。
これまで読んできた獅子文六源氏鶏太阿川弘之作品は全て映画化されているが、何れの作品も観たことがない。
DVD化されているのだろうか?
 
さて、内容だが「ぽんこつ」とはつまり「ぽんこつ屋」の事で、廃車になった車を引き取り、使える部品だけを取り出し注文に応じてその部品を売る仕事のことを言っているのだが主人公の和子の兄が買ったばかりの中古車で事故を起こし即死するところから始まる。
その廃車となった兄の車を買い取ったのが通称「マケトシ」と呼ばれている熊田勝利
油まみれで働くマケトシと歯科医の娘で大学生の和子の徐々に進展していくラブロマンスと言ったところだが、はっきり言えば、この手の作品の感想文は、あまり書くことがない。
 
要は面白いか、まあ、それほどでもなかったかぐらいで、勿論、映画化されているわけだから、そうそう嫌うほどの作品ではないのだが。
前回の『カレーライスの唄』は会社が倒産し、 考えた末、美味しいカレーライスの店を始める若い男女の恋と失業と起業の奮闘記だったが、今回は、これまた若い男女が結婚して二人でポンコツ屋を始める恋愛もの。
どうも、題材が似通っているような気もするが、ただ前作では株に関しての知識、本作は車に対する知識が必要な他はこれと言って感心するような文体はない。
 
少々、自惚れだが、このぐらいなら自分でも書けると思わせてしまうような小説だ。
勿論、解ってます。言うのは簡単だというぐらいは。
ところで、阿川弘之の作品は長い。
2冊とも500頁を超える。
何れにしても、このようなユーモア小説は、やはり一時代を反映しているのであろう。
ただ、一カ所、笑わかしてくれる場面があった。
それを書いておく。
和子の友人がボーイフレンドに誘われて箱根にドライブに行った。
そこで間違いが起き急に婚約と相成ってしまったが、それを心配して和子の母親が言う。
 
「生理的事故って言うんですってね、あの人たちの間で。油断なんか出来ませんわ」
 
すると、それを聞いた父親が答える。
 
「生理的事故か? アハハ、上手いことを言うな。桃の香や生理的事故も遠くなりにけ
 り。こっちは、年をとるわけだ。ワハハ」 
 

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芥川追想

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追悼文だけで編纂した岩波文庫というのが嘗てあっただろうか!
この手法なら明治以来、多くの文豪の死を、それぞれ一冊の本に纏め、いくらでも上梓できる。
芥川に限らず、是非、取り組んでほしいテーマのように思うが。
しかし、何故今回、芥川だったのか。
一読して思うに近代文学史に於いて芥川の自殺ほど文壇に衝撃を与えた事件は他になく、それだけに、当時の名だたる文士がこぞって追悼文を書いたようだ。
 
実に芥川の交遊関係は広く恩師は勿論、先輩、同僚、後輩、女中に至るまで多士済々の人物の追想が網羅され、読み応えは充分。
だが、如何せん、秀才揃いの名文家だけに文学論、芸術論は元より芥川の哲学まで掘り下げられては一介の読書人たる私は少々お手上げ。
それにしても大正文壇の出色たること素晴らしい。
綺羅星の如く登場する交遊録は読んでいて殊の外愉快。
少し長くなるような予感だが今日は、それら天才や文豪が芥川に付いての思い出や印象をどのように書いているか箇条書きに示したいと思う。
まずは志賀直哉から。
 
私は京都へ出て、子供に三輪車を買い、重いのを担いで帰って来ると芥川君と滝井君とが自家(うち)で待っていた。間もな里見と直木君とが来て、賑やかに話した。
 
凄いですね、こんな日が実際にあったんですね!
さらに!
 
その時一緒だった梅原(龍三郎)と丁度同じ方向なので、二人は同じ自動車で帰って行った。そしてその時芥川君は梅原の家へ寄ったとか、あとで梅原は「却々(なかなか)気取屋だね」と云っていた。
 
梅原龍三郎と芥川が同じ車に乗って帰って行った!
想像がつかない。
 
いつぞやの寒い夜、その晩彼は敷島を百八十本近く吸ったものだ。
そうして僕はそれを彼の健康の為に窘めると彼はたわむれるように、
「吸っても悪し、止めても却って悪し、つまりな同じことだよ、吸い度いのを吸わないでいるのは矢張り不愉快だよ」
 
窘めているのは佐藤春夫
知らなかったが佐藤春夫と芥川は同年生まれ。
 
実に久しい間、私は自分の胸中を打ちあけて語るべき、真のよき友人を持たなかった。稀に芥川君を友に得たことは、自分の物寂しい孤独の生活で、真に非常な悦びであり力であった。
 
人は百人の友の中から、その一人を失うことは苦痛がすくない。けれども僅か二人、もしくは三人の友の中から、その一人を失うことは耐えがたいかな。
彼れ死してどこにまた第二の芥川があり得るか、どこにまた私の芸術を、私の詩を批評してくれる人があるのか。
 
と、酷く嘆いているのは萩原朔太郎で、実に、私の好きな朔太郎はここまで芥川のことを思っていたんですね。
萩原言うところの、もう一人の友とは、おそらく室生犀星だろう。
三人で飲むこともしばしばあったようだ。
最後の別れの場面はこのように書かれている。
 
夜の雨中を田端の停車場まで送ってくれた。振り返って背後をにると、彼は悄然と坂の上に一人で立っている。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振って彼に謝した。そして実に、これが最後の別れであったのである。
 
死を決意した芥川と孤独の裡に生きた朔太郎のほっそりとした面影が浮かびそうで、その場面を想像してしまいますね。
 
正宗白鳥の芥川論は作品を透徹して素晴らしいが私にはやや難解。
こんなくだりがあるが、これは芥川の作品中の言葉なのだろうか。
 
酒色を恣にしている人間がかかった倦怠は、酒色で癒える筈がない
 
なるほどね、確かに。
 
自然主義以来の常套に習って、凡庸貧弱な自己の日常生活を書く外に能のない多くの新進作家に比べると、芥川氏の態度は、遥かに賢明であった。芸術的天分の傑れていたことをも証明される。
 
これも正宗白鳥の評だが、よく芥川の本質を捉えているの言っていい。
しかし、斯く言う正宗白鳥自然主義派なのだが。
 
芥川は聡明でお洒落で、それでいてチョット間が抜けており、かなりちぐはぐなところがあったり、非常な文化人であると同時に飯をきたならしく食い乍ら、ペチャペチャ喋るといった様な、一見野卑な一面もあった。また非常にきれい好きで、所謂明窓浄几趣味を口にする一方、余り上等でない悪所通いをやったりするといった風で、かなり矛盾したところを持っていた。
 
とは、松岡譲の追想だが、何で読んだか忘れたが芥川という人はとても立派の逸物の持ち主だったと聞いたことがある。
何でもその筋の女達には頗る評判が良かったとか。
 
自殺者の心理は自殺者自身にも解らないと彼は云っている。もし仔細に考えたなら、彼の自殺の動機たり得る事実が、いくつか数え上げられるかも知れない。しかし自分はそれ等の総ての動機は第二義的のものであって、第一のものは、彼の頭が彼の生活力を追い抜いたためだと思う。彼の生きていく力が、彼の休息なき頭を持て余したためだと思う。
 
だとするなら実に痛ましい。
これは広津和郎の弁だが広津は自著の中で芥川と誰かもう一人、画家と三人で女郎屋に上がった時のことを書いていたが。
 
ところで、大正8年当時の著名作家の原稿料が載っているので書いておきたい。
新進中堅作家と言われた久米正雄菊池寛広津和郎宇野浩二水上滝太郎久保田万太郎などは大体、四百字一枚六十銭から二円内外。
芥川は二円五十銭で先輩作家の田山花袋徳田秋声正宗白鳥と殆ど同額。
永井荷風谷崎潤一郎志賀直哉武者小路実篤などの諸先輩に伍して、いささかもひけをとらぬ高額であったと書かれている。
 
話しを先に進める。
 
本郷伊豆栄で晩飯を食べての帰途、神明町の小さい喫茶店にお茶を喫みに這入っていった。端なく芥川君と萩原君との間に議論が起こり、議論の嫌いな僕は二人の様子を見ながら煙草をふかしていた。萩原君は蕪村が芭蕉より面白いとか偉いとか云い、芥川君は芭蕉のほうが偉いと云った。
 
更に!
 
その勢いは恰も芭蕉が親兄弟か何かでででもあるかのような語調であった。
逝去二か月程前だったので勢いが勢い立つと血相をかえるところがあったのである。
 
と書いているのは室生犀星だが、議論に参加しないまでもその場に居合わせたかったものだ。
ところで昭和2年6月20日川端康成は友人を連れだった佐佐木茂索宅を訪ねた時のっこと偶然、珍しい来客があったとある。
芥川だが、これまでどの文献を読んでも芥川と川端の邂逅というのは唯の一度も出て来なかったがやっとこの本の中に見つけた。
二人に面識があったことが分ったので私なりに一安心。
 
さて、芥川はヘビースモーカーの上に大変な速読術の持ち主だったと聞いたことがあるが、下島勲という人が本人に確かめたところ、芥川の言うには普通の英文学書なら1日1,200頁は楽だと答えたらしい。
これは大変な速度で訊いた方も驚いている。
流石に凄い集中力だと言わねばならない。
 
最後に女中の森梅子は凡そこのようなことを言っている。
芥川と初対面の日、梅子はきちんと坐って手を衝き「どうぞよろしく」と言うと先方も「どうぞよろしく」と丁寧に返答したそうだ。
芥川家では奥と女中、下女の区別はなく寝所も普通に居間で床を取り、食事も冷や飯や余り物と違い、家中全員同じようなものを食べることに驚いている。
更におやつまで支給されたとある。
芥川にはそういう差別意識がなかった証拠ともいえる。
 
そして迎えた7月24日の朝。
奥様が驚いた顔をなさって、「もうだめです」「早く」「医者」といった言葉を聞いて梅子は芥川の部屋に水を持っていった。
奥様は一生懸命、先生をお呼びしていられましたが先生はもう冷たくなっていられました。
 
主治医の下島勲が呼ばれ注射などしていたが!
 
「もう、諦めなければなりません」
 
と首をうなだれて仰有った先生の眼から涙が下りました。
七時ころ、小穴様が、お出でになり、先生の死のお顔を写生していらっしゃった。
それがこのスケッチ。
 
 
よく、芥川のことを蒲柳の質という言葉で表すことが多いが、繊細で思い遣りがあり、あまりのも芸術的資質の高い人だったのだろうか。
しかし、切ないというか哀れさを誘う死だ。
これだけ多くの友に恵まれながら、結局はむざむざと死なしてしまった。
戦後まで生き延びて、その後の谷崎や志賀との『文芸的な、余りに文芸的な』論争を展開させてほしかった。
 
因みに表紙の写真は南部修太郎という人が大正10年3月10日に撮ったもの。
死後、送料を含め1枚3円で希望者に売られたらしい。
 

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挿絵画家の鬼才 岩田専太郎

 
昭和期の挿絵画家の最高峰にして天才と言えば、まず岩田専太郎だろう。
今日、この平成の世にあっては彼のような画法を見ることは全く無くなってしまったが、それだけに去って久しい昭和の郷愁を呼び起こす。
親の才能を引き継いだわけでもなく、ましてや遺伝でもないのに、何ゆえあのような才能は開花したのか。
 
岩田家は祖父の代まで徳川家の御家人で父は印刷業を営んでいたが、所詮は武家の商法で家計は傾くばかり。
両親は妹弟を連れて京都に移り、一人、専太郎だけは東京の叔母の家から小学校に通い、卒業と同時に親元へ帰り、図案家、日本画家、印刷図案家などに弟子入りしていたらしいが、18歳の時に単身上京し、キューピット人形の顔描き、がま口の焼き絵、菓子屋の見本描き、千代紙の下絵描きなど職を転々としていたが友人の進めで博文館の挿絵画家して採用されたことが転機になったが大震災で家を焼き出され、再び京都に舞い戻る。
 
当時の挿絵画家の登竜門は新聞小説に載ること。
念願、叶ったのは大正15年、三上於菟吉の連載小説『日輪』に初めて採用が決まったことから生活が一変。
8月、吉川英治の『鳴門秘帖』に挿絵掲載が決まり、一流挿絵画家としての地位を確固たるものにしたらしい。
 
しかし、それからが大変だった。
売れっ子画家となった専太郎は昼頃起床、朝昼兼用の軽食を摂るとトイレに行く暇すらないほど仕事に忙殺され原稿が出来ると、それを持って画室から夫人が玄関に走る。
待っていた女中は駅までダッシュ、原稿は汽車で大阪の新聞社へ。
次第に家計は裕福になり生涯の親友となった川口松太郎もこの時期に同居している。
 
専太郎という人は写真でみると一見、優男でハンサムだが体重が46㌔ほどしかない。しかし、外見に似合わず、酷い癇癪持ちで本来、仲良しのはずの妹と派手の取っ組み合いの喧嘩を始終していて川口をはらはらさせることが度々あり、ある時などは高価で重い蓄音器をおっちらおっちら運んでいって庭に叩き付けたとある。
 
まあ、それはともかく昭和初期、専太郎の給料は当時の大学生の約10倍。
描く絵も時代小説、現代小説、探偵小説から美人画と多岐にわたり、その才能を如何なく発揮しているが、まあ、その筆使いの鮮やかなこと、特に川口松太郎の小説で描かれた時代物は全く見事なものだ。
将に天才の名に相応しい仕事ぶりだったが、軍靴の足音が近づくにつれ、次第に依頼が減っていった。
時局に合わないというのが理由だが、追い打ちを駆けるように田端の自宅も戦災で全焼、この時、同じ田端に在った芥川の家も焼けた。
 
そもそも小説家には文壇があり画家には画壇があるが挿絵画家には受け皿がない。
人気だけが命で陰りが出てきたら後は消えるのみ。
しかし、戦後民主主義の到来と共に不死鳥のように蘇った専太郎に依頼は殺到する。
因みに専太郎は美人画についてこんなことを言っている。
 
「一番描いてみたいと思うのは、永遠の憂鬱を湛えた顔や姿である」
 
永遠の憂鬱ね・・・?
どんな顔のことを言うのだろうか。
ところで、私生活だが夫人とは別居し、収入の全てを女性に注ぎ込み、別れるたびに全財産を投げ出し、身ひとつで去って行く「なしの専太」とも言われていた。
女性のために銀座にバーを3軒も出している。
気っ風がよくて優しくて、決して自分から口説かない、もてる男の神髄を極めた粋な江戸っ子、それが専太郎という男だったらしい。
 
因みに戦後、全てを失った専太郎に声を掛けたのが長谷川一夫で家を失った専太郎は一時期、長谷川と同居しているが林長次郎返納問題で本名の長谷川一夫を名乗るように進めたのが専太郎だとか。
二人の出会いは朝日新聞夕刊の『雪之丞変化』の挿絵を専太郎が描き、その映画化に伴って知り合った二人の交誼は生涯に渡った。
その後は菊池寛賞紫綬褒章を得て、昭和49年2月19日、73歳で永眠。
生涯に残した作品、約6万点。
 

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大河内山荘

嵐山駅から徒歩で30分ほどのところに大河内山荘というところがある。
現在は国指定の文化財に登録されているが元は昭和の大スター大河内傳次郎の別荘。

太平洋戦争前のことだと思うが、当時女人禁制だった別荘を初めて訪れた女優が高峰秀子だった。
16歳の高峰は『鞍馬天狗』で大河内傳次郎と共演し「まだ女でないから」という理由で来館を許可されたとか。

以下、高峰氏の著書に従って。 

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「おおいかぶさるような孟宗竹一色の道である。その道をかき分けるようにして、記者とカメラマン、そして私を乗せた車は、静かに小倉山を登っていった」

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「まるで深山のような香気が流れ込んできた」

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「突然、車のあえぎが止まって目の前が開けた。そこに木肌も清々しい桃山時代風大河内山荘があった。私たちが降り立つと同時に、廊下のはずれに座っていた紺木綿の筒袖に、山袴の男が立ち上がり、つつっと奥に消えたかと思う間もなく、例のロイド眼鏡をかけた大河内伝次郎が、真っ白い着物の裾を蹴るようにして歩み出てきたのである」

高峰が山荘を訪れたのは昭和14~5年頃。
私がここを訪ねるのは2度目で前回は知らなかった大河内、高峰が記念写真を撮った場所をどうしても確認したかったからに他ならない。
その二人が収まった写真を持参して現地訪問という訳である。

因みに大河内山荘は広大な敷地で映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで約30年間増築を重ねたため昭和14年当時とは幾分趣きを異にしているかも知れないが探し当てた場所、それがここ!

二人座ってここで写真に納まっている。

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持仏堂、念仏、瞑想はこの中で行われ、台本はこの階段に腰掛け読んでいた。

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愛車クライスラーと記念撮影、昭和6年頃。

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そして昭和初期のヒーローと言ったらこの人。
丹下左膳ですね、一世を風靡しました。

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ここを幾多の著名人が訪れたか知らないが日本の様式美を追求した大河内傳次郎
女人を遠のけ只管座禅を組んで念仏を唱えていた大河内傳次郎
昭和の剣聖の息吹を少しは感じ取ろうとやって来たが。
最後に頂上から見た京都の一望を。

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日々、ここから遠くを望み、訪れる人と何を語らっていたのだろうか。

 

 

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芸術家たちの秘めた恋 メンデルスゾーン、アンデルセンとその時代 中野京子

 
思うに19世紀に現れた天才たちにとって音楽家ほど職業として激務なものもなかろう。
例えば小説家は日々、書斎でものを書き完成したら出版社に持っていけばいい。
画家はアトリエで作業し展覧会を開く、勿論、野外でのスケッチもあるが。
みなが家に籠っているばかりではないのは承知しているが音楽家の大変なところは、作曲してそれで終わりではない。
録音技術のなかった当時にあっては、まずコンサートを開いて多くの聴衆にお披露目しなくてはならない。
 
完成度が高く名声も上がれば自国内だけではなく欧州全土での活動が待っている。
当然のように宮廷や貴族の社交場にも出入りしなければいけない。
出演依頼、作曲依頼と多忙を極め、また、当時の移動手段にも問題がある。
鉄道は敷設されてはいたものの速度は現在とは比較にならず、船、馬車などで移動となると体力的な消耗は大変だったろう。
 
だからというわけではないだろうが、クラシックの作曲家には早死にの人が多い。
ビゼー・36歳
 
彼等天才児にあと10年の命を与えたらと思うと、その早い死が惜しまれる。
また、死因を巡る謎も尽きない。
サリエリによるモーツァルトの毒殺説などは単なる伝聞だとは思うがチャイコフスキーの自殺説はどうなのだろうか?
メンデルスゾーンも死因が特定されていない。
 
さてと、今回の本だが簡単に言えば同時代に生きた3人の天才児の恋愛を扱ったもの、と言ってしまえばあまりにも安直。
即ち、デンマークの切手にもなったアンデルセン
同じくドイツの切手になったメンデルスゾーン
そしてスウェーデンの紙幣になった19世紀最高のオペラ歌手ジェニー・リンド。
国籍の違うこの3人に何があったのか興味がわき読むことにした。
 
まず、その生い立ちだがメンデルスゾーンは1809年2月3日、ドイツのハンブルグユダヤ人の裕福な銀行家の長男として生まれている。
そもそも父親は息子を音楽の道に進ませることに興味はなくあくまでも教養の一環としての習い事で、当然、将来は銀行家にさせるつもりであったが、早くから音楽的な才能を発揮し神童と言われるようになって父もようやく息子の才能に気付き音楽の道に進むことを承諾。
 
しかし、既に19世紀にはヨーロッパ全土でユダヤ人差別の問題は顕著で教育熱心な母親は息子を学校にはやらず家庭教師を付けての勉強、それがまた凄かった。
メンデルスゾーンは4人姉弟だが、5時には起床して各分野の一流専門家が早朝から晩まで教鞭を振るう。
朝食前にラテン語ギリシャの真善美論、朝食後10時に数学、11時にヴァイオリンと
チェロの練習、昼食後、歴史、神学、製図法、古典文学、フランス語、イタリア語、
英語、そしてピアノのレッスン、ダンス、水泳、乗馬と隙間なくスケジュールが組まれていが、天才児メンデルスゾーンはこれらの問題を難なくこなし、数か国語を操り、名文家にしてセミプロ級の画家の才能も発揮、チェスの名手で水泳はコーチより早く泳いだとある。
 
7歳にして作曲、姉はピアニスト、妹が声楽家、弟がチェロと周囲を驚かせ、15歳で4つのオペラ、交響曲、協奏曲、ピアノ曲を完成させている。
更に礼儀作法も一流で見栄え麗しい美少年、家計の心配は全くないという恵まれ過ぎた環境で育った。
 
一方、1805年4月2日にデンマークで生まれたアンデルセンは全く真逆な家庭で育つ。
父親は腕の良くない靴職人、母親は川での洗濯女。
ヨーロッパでは長く階級社会が続き、貧富の差や教育の差が大きく、一端、労働者階級の貧しい底辺に生まれたら、まず脱出は不可能と言われていた時代。
両親は一人っ子のアンデルセンに惜しみない愛情を注いだが祖父、父と二代にわたって精神に異常を来し、11歳の時に父を亡くす。
学業もなく母親の手助けをする気もないアンデルセンは何故か生涯、底抜けの楽観主義を貫く性格になってしまった。
例えば運命に対する楽観、他人の善意に対する楽観、この世は美しいとの楽観などである。
 
最後の登場人物、ジェニー・リンドは1820年10月6日にスウェーデンストックホルムで私生児として生まれ、1歳にも満たないうちに田舎のオルガン奏者をしている、いとこに預けられ、それを最後に母親は行方をくらます。
しかし、孤独を紛らわすために森に入っては歌を唄っていたところを、たまたま通りがかった王立劇場の関係者がその美声に驚いたことから人生が変わって行く。
王立劇場の特待生として入学した時は僅かに9歳。
発声法、語学、演技、ピアノ、バレエ、文学、演劇として修業を積み、図抜けた才能を開花させて10歳でデビュー。
新聞はこぞって「天才少女歌手出現」と書き立て、これまで誰ひとりなしえなかった宮廷歌手の称号を手に入れる。
 
この頃、アンデルセンはというと、コペンハーゲンで3年苦労した後、枢密顧問官のヨナス・コリンという人物と巡り合う。
それが運命の転機となった。
慈父のようなコリンはアンデルセンを引き取り、彼の中の隠れた才能を信じ、コペンハーゲン大学まで入学させ生涯物心両面で援助する。
23歳、王立劇場で戯曲が上演され、彼の天才性は広く世界に広まることになった。
 
では、この三人の天才を引き合わせたものは何であったか。
楽観主義のアンデルセンは、ある日、同業者のグリム兄弟を訪ねる。
こちらが知っているのだから当然、向うも知っているはずというのが彼の論理だが、
グリム兄弟はアンデルセンを知らなかった。
しかし、日を追うにつれて親しくなったグリム兄弟にメンデルスゾーンを紹介され、内輪のパーティではリストとメンデルスゾーンの運命的な出会いもある。
 
その頃、アンデルセンはジェニーの名声に惹き付けられ勝手に押し掛けては面会を強要するという一方的な片思い状態で、メンデルスゾーンに是非、ジェニーの為の曲を書いて欲しいと懇願。
この時点ではメンデルスゾーンとジェニーの面識はない。
メンデルスゾーンは既に妻帯者で子供にも恵まれ何の不住もなく生活していたが、噂に聞くジェニーに会ったことから事態は少しずつおかしな方向へ。
音楽の話しで意気投合した二人は妻も嫉妬するほどの仲に。
 
一方、楽観主義者のアンデルセンは必ずや将来の妻はジェニーだと慕う。
まるでストーカーのようにジェニーの前に現れるアンデルセン
しかし、メンデルスゾーンに会えば会うほど心惹かれて行くジェニー。
運命の歯車が狂いだすのは1847年、健康そのものだったメンデルスゾーンの姉が41歳の若さで脳卒中で急死。
それ以前から体調を崩していたメンデルスゾーンの受けた衝撃は大きく、嘗てのような意欲も失われ病気を繰り返し姉の死から僅か半年後、謎の死を遂げた。
 
アンデルセン42歳、メンデルスゾーン38歳、ジェニー26歳の時である。
以来、ジェニーはアンデルセン「お兄様」と呼び結婚には至らず。
ジェニーが選んだのはメンデルスゾーンが代わりの伴奏者として紹介した弟子のオットー・ゴールドシュミットという音楽院を主席で卒業した人物だった。
天才たちの意外な邂逅と別れ、人生、いろいろですね!
 

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初夜 イアン・マキューアン

実のところ、年間を通して何冊か読まなくてもいいような本を買ってしまう。
10ページほど読み進めるうちに「しまった」た思うのだが既に後の祭り。
今回の本も当初から嫌な予感がしていた。
小説でありながら殆ど会話らしきものがない。
会話の部分だけを合わせても5ページにも満たないだろう。
 
更にである。
「初夜」とは何ぞ!
よく見ると原題は『On Chesil Beach』とあるではないか。
つまりイングランド南部にあるチェシル・ビーチのことで、その海岸に建つホテルで新婚初夜を迎えようとしている二人のことを描いた物語だが、どうも邦題が気に入らない。
これではまるで『熱海の海岸』という日本の小説をイギリス人が英訳して『ファースト・ナイト』とでも訳したようなものではないか。
別に私はポルノ的なものを期待したわけではない。
解説にはこうある。
 
性の解放が叫ばれる直前の、一九六二年英国。結婚式を終えたばかりの二人は、まだベッドを共にしたことがなかった。初夜の興奮と歓喜。そして突然訪れた、決定的な不和。決して取り戻すことのできない遠い日の愛の手触りを、心理・会話・記憶・身体・風景の描写で浮き彫りにする、名匠マキューアンによる異色の恋愛小説。  
 
一体、初夜を迎える二人に何が起きたのかと思いつい買ってしまった。
物語はいきなりホテルで夕食を共にする場面から始まる。
隣の部屋にはベッドルーム。
新郎はいやが上にも期待が膨らみその時を想像する。
二人は一年前に知り合い、まだ22歳。
愛し合う二人だが、この一年間、肉体的な交渉は一度としてなく、遂にこの日を迎えたのである。
 
その目出度い今日のために新郎は敢えて自慰行為を1週間やめてこの日に臨んだ。
少ないながらも新郎は女性経験があったが新婦はまっさらの処女である。
だが、事はなかなか始まらない。
いや、読者のこちらは、それ以前に延々と二人の馴れ初めから新婦の両親の話しを回想という形で読まなければならない。
 
そして読者は何とかその場面に辿り着く。
くどいようだが二人は確かに愛し合っているのである。
がしかし、新婦は殊の外、ディープ・キッスを嫌っている。
新郎の舌が口に侵入するのを自らの舌で受け止めようとはしない。
寧ろ嫌悪感さえ覚えるようだ。
二人はベッドで横になる。
新郎は期待で胸が膨らみ歓喜が迸るが新婦の服を上手く脱がしきれない。
 
業を煮やした新郎は一端、ベッドを離れズボンを脱いで再びベッドに。
しかし、新婦はこの営みそのものを当初から嫌っていた。
そうとは知らず、新郎の手は新婦の下半身へと延びてくる。
新婦も仕方なしに新郎のぺ○スの中ほどを握った瞬間、興奮のあまり、あろうことか、新郎はイッテしまった。
まったく予想外にも体液は新婦の体にかかり、思わず悲鳴を上げて枕で新郎を叩き素早く衣服を着ると新婦は一目散にビーチへ飛び出した。
 
唖然とする新郎と大ショックな新婦。
つまり、結婚はしても性行為は避けたいと思っていたと、こういうわけか?
そんなバカな、という話しになってしまうが、それが現実的に本の中で起きるわけである。
その後、新郎は新婦を捜しに浜辺へ向かい、どういうことかと話しを訊こうとするが二人の話しは嚙み合わず、新婦はホテルに戻り、荷物を纏めて帰ってしまう。
そして数日後、新婦側から離婚手続きの書類が届く。
こんなことがあり得るだろうか。
アリエールなんて言っている場合じゃない。
 
そもそもこういう事は結婚前に話し合っておくべきではないのか。
性の解放が叫ばれる前の1962年のイギリスと言うが、私の世代ではよく解らない。
新婦は性に対し怯えと戸惑いを感じているのは理解できても、では、この先どうしようと思っていたのか。
他の人はどう思っているのかと調べてみると意外と好意的にこの本を捉えている人が多いようだが、そう言われると読解力が乏しいのかといつも落ち込む。
そう言えば昔、こんな夜に発射できないなんてという歌があったが発射の仕方がまずかったわけか。
それにしても、まあ酷い感想文になってしまった。
 

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インパール作戦従軍記 一新聞記者の回想 丸山静雄

第二次大戦の三大決戦と言えば、エル・アラメインの戦い、スターリングラード攻防戦硫黄島の戦いとなるが、どれもこれもうんざりだ。
ロンメルとモントゴメリーが北アフリカで雌雄を決したエル・アラメインの戦いは灼熱の砂漠で激闘、両軍を悩ませたのは蠅と飲料水、それと燃料。
イギリス軍は蠅の大群に手を焼き、師団長命令で「ハエ撲滅作戦」まで発令されたくらいで、見渡す限り砂漠での戦いなんてとてもじゃない。
 
スターリングラードの攻防戦は赤軍、枢軸側合わせて200万もの死傷者を出し飢えと凍傷に苦しむ戦いで包囲されたパウルス元帥はついに降伏、投降したドイツ兵はほとんど生き永らえることが出来なかった。
 
一方、硫黄島を守る我が栗林兵団はどうか、制空、制海権ともに敵に奪われ、日々、擂鉢山の中に蟻の巣のような洞窟を掘り敵の上陸に備えた。
映像などで見れば分るように、あの凄まじい艦砲射撃と空爆にただひたすら、壕内で耐え忍ぶという恐ろしさ。
私なら確実に戦闘前に病死か精神を病んでいるだろう。
 
しかし、それに勝るとも劣らぬ戦い、それが世に悪名高いインパール作戦だ。
いったい、これを立案作成した牟田口中将はどういうつもりなんだ。
戦後、何故、腹を切らない。
前置きが長くなったが、この本はよりによって、あの戦いに自ら志願して従軍した新聞記者が作戦失敗後、40年の時を経て書いたものだが、まあ、その敗走の日本軍が辿る惨たらしさといったらない。
 
本書を執筆するにあたって著者は当時は知り得なかった作戦内容を充分研究してから書いているが、それこそ馬鹿でかいビルマ地図など参照しながら見ていかないと全く分からい山岳、河川、部落名、地名、また文明と遮断された多くの山岳民族など出てきて読み辛い。
 
とにかく行軍は想像を絶する。
世界有数の降雨量を誇る地域で一日の雨量が何と千ミリというから驚く。
河には3メートルを超す大魚が棲みトラ、豹が生息する密林地帯。
さらにマラリアチフスコレラ、風土病、毒虫、蛭と、こんな所で寝食など出来たものではない。
 
さらに南方軍総司令官寺内大将を通じて方面軍から第十五軍に下達。
対するは英印軍、つまりイギリス、インド軍だが日本側にもインド軍が参加。
インド独立義勇軍である。
 
方面軍兵力は総勢13万。
牛、馬、象も連れて行くという途方もない計画で、作戦の趣旨は援蒋ルートの遮断、重慶政府の屈服と日中戦争終結
インド独立の支援、英米支連合戦線を分断して太平洋戦争の解決という壮大なシナリオのはずだった。
しかし、人跡未踏のような地の行軍、食料20日分の携行、あとは現地調達。
 
だが、夢儚く、常に空爆の恐怖に晒され物量共に勝る連合軍に完敗。
そして、あの名高い白骨街道と称された道を敗走するわけだ。
熱帯雨林地区では1週間もすれば死体は白骨化するらしい。
死屍累々、食料なく、武器弾薬は捨て置き髪ひげは伸び放題。
痩せ細り、発狂し、行方不明、重症者、歩行も困難な状況に立ち至った。
豪雨と悪路を何とか退避して来ても立ちはだかる幾つもの河川。
 
舟は一つしかなく規律を失った兵たちは順番を巡って争いが起き、濁流に呑まれて流される者、気力を失う者と統率の取れなくなったただの集団と化してしまう。
うだるような暑熱、沛然たる大雨の中、いつ、果てるともない野営生活。
薪を集める者、野草を摂る者、筏を作る者と、とにかく渡河しないと生き残れない。
更に昼は偵察機、機銃掃射、そして英軍の追跡。
 
第十五軍の被害状況。
 
生還者   31,000
犠牲者 123,000
 
英印軍
 
死者  15,000
傷者  25,000
 
体力の消耗、空腹、杖一本で退却するなど惨憺たる現況であった。
いったい、牟田口廉也中将とは如何な人物だったのか。
作家の故児島 襄氏によると。
 
「真情性と猛気を持ち、まっしぐらに進む戦いを好み、いったん、そうと思い込めば
 その思い込みを思い詰に、確信を信念に、さらに信仰にまで高めてしまう」
 
とある。
高木俊朗『抗命-インパールⅡ-』 によるとこんな場面がある。
 
牟田口軍司令官が、藤原参謀の机の所へやって来て、私達部付将校の前でこんな事を言った。

「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」

と、いとも弱々しい口調で藤原参謀に話しかけた。私達は仕事の手を休め、この興味深い話に耳を傾けた。彼は本当に責任を感じ、心底からこんな事をいい出したものだろうか。自分の自害を人に相談する者があるだろうか。彼の言葉は形式的な辞句に過ぎないものではなかろうか。言葉の裏に隠された生への執着が、言外にあふれているような疑いが、だれしもの脳裏にピンと来た。藤原参謀はと見ると、仕事の手を一瞬もとめようとはせず、作戦命令の起案の鉛筆を走らせていた。司令官には一瞥もくれようとせず、表情すら動かさず、次のようなことを激しい口調で言われた。

『昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません。司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗はそれ以上の価値があります』

と言って相も変らず仕事を続けている。取りつくしまもなくなった司令官は『そうか、良くわかった』と消え入りそうな、ファッファッと、どこか気の抜けた笑い声とも自嘲ともつかない声を残して、参謀の机の前から去って行った。
 
最後にインパール街道に面したところに建てられた英軍戦死者の記念塔にはこう書かれているとか。
 
「あなたが故国に帰ったならば、私たちは故国の人々の明日のために戦って死んだ
 ということを伝えてください」
 
因みに牟田口廉也元中将が死去したのは昭和41年8月2日である。