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芥川追想
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挿絵画家の鬼才 岩田専太郎
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大河内山荘
嵐山駅から徒歩で30分ほどのところに大河内山荘というところがある。
現在は国指定の文化財に登録されているが元は昭和の大スター大河内傳次郎の別荘。
太平洋戦争前のことだと思うが、当時女人禁制だった別荘を初めて訪れた女優が高峰秀子だった。
16歳の高峰は『鞍馬天狗』で大河内傳次郎と共演し「まだ女でないから」という理由で来館を許可されたとか。
以下、高峰氏の著書に従って。
「おおいかぶさるような孟宗竹一色の道である。その道をかき分けるようにして、記者とカメラマン、そして私を乗せた車は、静かに小倉山を登っていった」
「まるで深山のような香気が流れ込んできた」
「突然、車のあえぎが止まって目の前が開けた。そこに木肌も清々しい桃山時代風大河内山荘があった。私たちが降り立つと同時に、廊下のはずれに座っていた紺木綿の筒袖に、山袴の男が立ち上がり、つつっと奥に消えたかと思う間もなく、例のロイド眼鏡をかけた大河内伝次郎が、真っ白い着物の裾を蹴るようにして歩み出てきたのである」
高峰が山荘を訪れたのは昭和14~5年頃。
私がここを訪ねるのは2度目で前回は知らなかった大河内、高峰が記念写真を撮った場所をどうしても確認したかったからに他ならない。
その二人が収まった写真を持参して現地訪問という訳である。
因みに大河内山荘は広大な敷地で映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで約30年間増築を重ねたため昭和14年当時とは幾分趣きを異にしているかも知れないが探し当てた場所、それがここ!
二人座ってここで写真に納まっている。
持仏堂、念仏、瞑想はこの中で行われ、台本はこの階段に腰掛け読んでいた。
そして昭和初期のヒーローと言ったらこの人。
丹下左膳ですね、一世を風靡しました。
ここを幾多の著名人が訪れたか知らないが日本の様式美を追求した大河内傳次郎。
女人を遠のけ只管座禅を組んで念仏を唱えていた大河内傳次郎。
昭和の剣聖の息吹を少しは感じ取ろうとやって来たが。
最後に頂上から見た京都の一望を。
日々、ここから遠くを望み、訪れる人と何を語らっていたのだろうか。
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芸術家たちの秘めた恋 メンデルスゾーン、アンデルセンとその時代 中野京子
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初夜 イアン・マキューアン
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インパール作戦従軍記 一新聞記者の回想 丸山静雄
「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」
と、いとも弱々しい口調で藤原参謀に話しかけた。私達は仕事の手を休め、この興味深い話に耳を傾けた。彼は本当に責任を感じ、心底からこんな事をいい出したものだろうか。自分の自害を人に相談する者があるだろうか。彼の言葉は形式的な辞句に過ぎないものではなかろうか。言葉の裏に隠された生への執着が、言外にあふれているような疑いが、だれしもの脳裏にピンと来た。藤原参謀はと見ると、仕事の手を一瞬もとめようとはせず、作戦命令の起案の鉛筆を走らせていた。司令官には一瞥もくれようとせず、表情すら動かさず、次のようなことを激しい口調で言われた。
『昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません。司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗はそれ以上の価値があります』
と言って相も変らず仕事を続けている。取りつくしまもなくなった司令官は『そうか、良くわかった』と消え入りそうな、ファッファッと、どこか気の抜けた笑い声とも自嘲ともつかない声を残して、参謀の机の前から去って行った。